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それからのメートル法−ヤードポンド圏からの離陸支援を− 多賀谷 宏
メートル法への切換には
改めてお断りするまでもないと思うが、ここでの議論ではいわゆる‘ヤードポンド法’と対称的に呼称されている‘メートル法’(Metric Sistem)を指している事を再確認して おきたい。つまりアメリカ、イギリス両国共すでに科学技術の精密測定では実用段階に入っている‘国際単位系’(TheInternational System of Units)SIと、‘メートル法’とを明確に区分して考えることにしている。言うまでもなくアメリカ、イギリスともメートル条約加盟国であって、その理事機関である18人で構成される国際度量衡委員会(CIPM/英語式にいえばICWM)にも当初から参加、多くの科学的・実質的な貢献をしてきている。この両国は計量標準や計測技術の近代化に関して多くの研究業績を挙げ、各種の国際単位の標準値設定や、より高精度への単位改訂時にも寄与参画しており、いわばメートル条約の科学的立役者であることは昔も今も改めて言うまでもない。したがって両国とも科学技術の国際的最先端分野では、すでに多くの領域でSIを使っている。しかし本論ではこうした学問分野あるいは科学分野でのメートル法導入についてはSI化で切換は済んだものと見做し、別次元のものとして扱う。ここでの問題は両国国民の最大多数を背景とする国際経済社会におけるメートル法の採用が主題である。特に超大国アメリカにおける圧倒的大多数の国民が、日常生活の営みの中で使っている慣習度量衡単位(ヤードポンド法)のメートル法化の検討が対象である。言い換えれば民生よりの社会生活(たとえば民生用機器製造業、道路、交通、海運、航空など)や、一般的な国際通商貿易面などにおける度量衡単位の国際的統一に主眼をおいての、メートル法の公的採否を主題としている。
フランスのパリ近郊セーブルの高台にルイ14世が建てたパヴィヨン・ド・ブルトイユという由緒ある館(やかた)がある。ここに1875年から設置されている国際度量衡局(BIPM)は 、メートル条約の事務局であるとともに、すぐれた研究者を擁する中央研究所でもある。このBIPMをはじめとし、条約加盟各国の関係者の地道な努力の積み上げにより、近年のSIの普及には目覚ましいものがあるが、しかし既述のように米英両国の場合、これはまだあくまでもアカデミックな場のみにおける話であって、国民の大多数が使用しているヤードポンド系度量衡単位の現状とSIの普及度とは、ここでは峻別しておかなければならない。
さてメートル化への遅れがアメリカやイギリスの経済に、年間どの程度の損失をもたらしているか、そしてそれが他のメートル圏の国々との間(もちろん双方向)で、どの程度の損失に達しているかについては残念ながら未だ具体的な算出例がない。こうした数字を出すのはアメリカのシンクタンクが最も得意とするところのようにも思えるが、それでも文字通り瞬間的な数値は散見されているのである。例えば1999年、世界を駈け巡ったニュースであるが、アメリカの先端科学者集団であるNASAが、火星周回軌道に探査衛星をのせる段になってメートルとヤードの換算のミスで、1億6千5百万ドルが一瞬にしてフイになったというケースがある。と、さらにまた突如、ここで悲しいニュースが飛び込んできた。スペースシャトル「コロンビア号」の事故である。まだ原因が特定できないようだが、7人の搭乗員を悼むと共に私としてはこの事故には少なくとも、換算ミスによる整備漏れが全く介在していないことを切に祈りたい気持である。
さきにアメリカでも科学技術の最先端ではSIが普及していると書いたが、実は科学技術の最先端にあるNASAといえども、後に述べるように背景を支える航空機産業界の単位切換の遅れに端を発する「換算」という余計な(だけでなく有害でもある)プロセスを抱えるなど多くの課題を背負っているのが実情である。これはイギリスにおいても同様で、単位換算の過程が発生させているコストが、長期にわたって英国経済に負担をかけている状況は政府関係者の間でも問題視されてきている。
これらに比べれば規模は遥かに小さいが、換算ミスがもたらす被害ケースの理解をたすけるため身近な例をあげれば、日本でも新旧単位の併用されていた時代には隋所でこの種の換算ミスによる経済的悲劇が演じられていた。なにしろ日本の場合には、1時期には尺貫法・ヤードポンド法・それにメートル法と三つ巴の単位系を頻繁に組み替え、併用していたのだから、当事者は大変な注意力が必要だった訳である。典型的な例では、ある新築の大型建築物の完成間際に納入した窓ガラス板のカットの際に、寸とセンチの換算を誤り、数万枚のロスを出してしまったことなど、こうした例は枚挙にいとまがない。
唯一の超大国アメリカは、自国だけでもある程度自活できる資源、生産力そして個人需要をもつ市場を有する国である。しかも世界経済におけるその比重は他国とは比較にならないほど大きい。また昔年ほどの影響力はないとは云え、イギリスとて工業力・科学技術 面さらに国民の知的水準においても今日なお世界最高水準に位置している国である。この両国の最大多数の国民の利用を置き去りにしたままでメートル法の国際単位としての統一達成は考えられないし、現状のままで世界が蒙っているであろう経済的損失も無視し得ない。それは単に両国だけではなく、両国と通商取引している世界各国内においても、製造・輸出入・流通そして運用・消費などのいずれかの局面において単位換算を介在させなけれ ばならず、これに要するコストと時間的ロス、さらには発生しやすい換算ミスによる損失の累積は表に出にくいものであるが、グローバルに見るとき年間には巨額の負担となっていることが想像に難くない。いずれどこかの(そしてこうした計算を最も得意とするアメリカ国内の)シンクタンクがこの種の膨大なロスの積算をし、地域別・産業別などの発生 状況として解析し、その情報を公開してくれることを期待しておこう。
度量衡単位を切換えるという事は、古代にはしばしば国家権力の象徴として行なわれていたこともあったが、現代では権力を象徴する為政者の道具としての意味は全く失われている。むしろ度量衡単位の切換には、後述するように国と社会を構成するインフラストラクチュアのソフトウエア面とハードウエア面との両面に関わる合理的な再構築という意味が厳然と含まれるようになっている。従っていわゆる純粋科学の面だけではなく、国家的なバックボーンを構成する国防をはじめ産業、貿易、運輸、通信など経済や、社会の円滑な運営自体とも密接に関わっている。このように今日では度量衡単位の切換には国民の健康で安全な社会生活を支えるインフラの再整備としての顔が、公的もしくは私的な様々な領域で大きくかつ重く関わってくることに留意しておかなければならない。
ここで、もし「アメリカ・イギリスは切換ができるであろうか」と問われたとき、どう 答えるべきか。現時点での私の答えは[期限を限らない範囲でのみイエス]と言うに止まらざるを得ない。そして私自身が数年前まで抱いていた「切換の可能性が全くゼロというノウ」は既に消えたと思いたい。ならばその可能性をどこに見いだすかを探ろうということになるが、その前にメートル法切換のために現在のアメリカ・イギリスに障害として横 たわっている問題点には何があるのかを先ずさらってみることが必要であろう。先ず第一に「できるか、できないか」には当事者の意志と能力が深く関わってくる。
意志の問題
公的立場ないし国家としてのアメリカ・イギリス両国政府レベルには、それぞれ切換の意志は有るとみてよい。それは条約加盟以後、戦争や特段の政治的拘束ないし課題のない時の、とくに純粋に学術的、科学的課題にみるかぎり、どちらもが積極的な研究協力を続けてきた長年の実績が明らかに示している。そればかりでなくアメリカのロックフェラー財団はメートル条約締結以来、現在に到るまで前記の国際度量衡局(BIPM)の実験棟の増改築や研究機器設備の寄付などをしばしば行なってきているし、米国政府としても毎年のBIPM(国際度量衡局)の維持費分担金を加盟国中でも最大の負担額で支払い続けて来ている。超大国ゆえ当然とはいえ、その貢献度はなみなみならぬものと評価すべきであろう。(因みに日本も世界第2位の分担をしている。)
問題は以下を含む州政府レベルや民間、とりわけ産業界側に果たしてどれだけの意志があるかという懸念にある。
またアメリカの場合には、たとえ行政府レベルに意志があっても立法府(議会)の説得が難しくて、なかなか実現が覚束ないというケースが幾つもある。そのもっとも知られているケースが銃規制の難しさにみられる。隣の家まで数キロということが、ざらに有り得る広大な国土と、出身地や生活様式、ときには宗教や言語にも多様性を抱える民族構成は、それだけでも基礎的なインフラ装備の切換に日本の数十倍のエネルギーとコストがかかるものとみなければなるまい。まして財政的な流動期を迎えている今のアメリカ政府が、この課題での高コストと強い抵抗意識に直面させられたとき、どこまで切換に民意を引っ張って行けるかにあろう。
能力の問題
日本でもそうだったが、ある大きな制度改革を目前にしたとき、人々は総論賛成・各論反対の撞着に陥り易い。立場の違いや過去のしがらみ、これはどこの世界に も起こり得ることである。イギリスでは今日でもヤードポンド系の旧単位を「インペリアル・ユニット」と呼んでおり、伝統を重んずる国民性の一端と旧き佳き時代への郷愁を、のぞかせてもいる。それはアメリカの場合でも同じような状況下にあり建国以来200年も のあいだ継承しつづけ、慣れ親しんできた度量衡単位を、今になって切換えることは、たとえ頭ではその合理性・必要性を認めてはいてもイザとなれば、差当って既存設備や資財 機器の蓄積に大きくムダの出ることが見込まれたり、あるいは機器更新のための経済的ロスが多量に出てしまう事などに、つい目が行ってしまうだろう。また意識の問題の外にも個人消費の末端レベルに求められる決して容易ではない日常的生活習慣の切換を、どのくらい大衆に納得させ得るか。それに付随して発生する末端消耗品・器具類の交換コストの 分担は個人・企業・地方自治体・国の、どこで、どのように線を引くのかなど、それこそ自 由世界ゆえの多様な要求や紛糾の高まりと抵抗を覚悟しなければならないし、それを収束し、望ましい方向に牽引できる強い意志と行政能力が存在し得るかどうかもあろう。
さらに両国とも自治体レベルにおける道路、港湾、内水海運、零細航空企業(特にアメリカ)、通信、エネルギー、上下水道等のライフラインに関わる公的施設の計器交換も必要となってくる。この費用は俄には算定しがたい程の多額に昇るであろうし、直接的経費だけについても、これまた誰がどこ迄の負担をするべきかの問題も発生してくる。