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「計量計測データバンク」記事 2022年寄稿_02

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転宅物語 住所で辿る私の記録

佐藤克哉

 

プロローグ

明治になって、地方から都会へ出てきた農村の次男坊の話から始まる。

現在の家の姓は佐藤だが、始まりは畠山である。富山県の出自である。

明治16年(1883年)富山県西砺波郡山王村大字下老子村の畠山家で次男の清一郎が生まれた。明治20年(1887年)富山県西砺波郡醍醐村大字後正寺の山中家で六女のハツが生まれた。明治38年頃ハツは清一郎に嫁いだらしい。そして二人は東京へ出てきた。

 1.    最初の住まい 1936-1939年(昭和11年―昭和14年) 

東京市南品川4丁目500番(市制になる前は東京府荏原郡品川町大字南品川宿537番地)

誕生から3歳まで

 

私の最初の家である。赤ん坊の頃で、何も記憶はないが、祖母や母から聞いたことを基にして、当時の経緯を綴る。

発端は、合資会社明治護謨製造所(現株式会社明治ゴム化成)の人探しからである。明治護謨製造所は明治33年に創業し、東京郊外の品川に工場を建てたが、ゴム製品の製造はきつく危険で汚い仕事という噂が流れ、人が集まらず、富山、新潟方面で人を探していたらしい。明治40年頃、富山県人会の前田という桂庵(口入屋;雇人斡旋人)がその仕事を引き受け、西砺波郡山王村で声をかけて回った。その誘いに乗り、下老子(しもおいご)村の畠山一族から3家族が上京し、そのうちの畠山清一郎、ハツ夫婦が上記住所に落ち着いたことが始まりである。

上京した畠山の男達は明治護謨製造所に雇われ、3家族それぞれ暮らしを立てていくはずだったが、清一郎の家はあまりうまく行かなかった。家に結核が蔓延し、生まれた9人の子供のうち6人が死亡し、清一郎も大正2年に44歳で死んだ。何とか成人したのは長女とよゑ、4女ミドリと次男清の三人だけだった。夫の死後、ハツは明治護謨製造所に雇ってもらい、糊口を凌いだ。実験室で働いていたので、そのころの女性としては珍しくビーカーやフラスコの扱いを知っていた。

一方、明治護謨製造所に佐藤直(すなお)という若者がいた。明治43年生まれ。何時ごろからかは不明だが、事務方として働いていた。彼の生い立ちもよく判らない。生まれたのは大分県直入郡下竹田村だが、母サカエに従って、福岡市に移ったと聞いている。父の名前は増身で、戸主ではなく3男で、母サカエは養女と、記録が残っている。直が一人で上京したが、雇われたときの状況は分からない。仕事は出来たようで、順調だったらしい。

畠山ハツは佐藤直を見込んだのであろう。娘ミドリをめあわせ、所帯を持たせた。畠山とよゑは昭和10年に死亡したが、畠山家(ハツ、清)と佐藤家(直、ミドリ)は一緒に暮らした。とよゑは玉川水道会社に勤めていたらしいが、病のため退職した時、座敷机を餞別に贈られた。その机はまだ残っている。翌年の昭和11年(1936年)に私が生まれた。叔父清は、相撲に見立てて、赤ん坊の私を転がして遊んでいたそうだ。

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 2.    二軒目 1939-1944年(昭和14年―昭和19年) 

東京市品川区南品川6丁目 

3歳から8歳まで

 

私の最初の記憶はこの家から始まる。父の収入が増えたせいだろうか、昭和141130日に引越をした。南品川4丁目500番は崖下の家で、南品川6丁目の家は崖の上にあった。崖の端に浅間台小学校がある。その脇に崖下から崖上に通じる小さな石の階段がある。引越しの時、私は父の部下の嶋川さんに抱かれてその階段を上がっていったことを覚えている。他の記憶が残っていないのに、これだけは鮮明に覚えている。浅間台小学校は今でも変わらずそこにある。

家は小さな庭付きの借家で、8畳の座敷、6畳の居間、6畳の離れと各部屋を玄関へつなぐ廊下、炊事場、風呂場という間取りだった。座敷は祖母ハツと叔父清の、離れは父直と母ミドリの寝室だった。座敷から雨上がりの虹を眺めた記憶がかすかに残っている。

清叔父の趣味は鉄道模型とバイオリンだった。部屋の隅に模型機関車の小さな動輪が転がっている光景が頭に焼き付いている(鉄道模型の趣味は私から息子へと繋がり、メルクリンのジオラマが息子の家にある。バイオリンについては私も後年習い始めた。物にはならなかったが、ドイツで買ったフランス製100年物のバイオリンが残っている)。その叔父も翌年死んだ。しかしこれで結核の連鎖が切れ、病人のいない普通の暮らしになった。父直は祖母ハツと私をよく外へ連れだした。羽田空港に行った記憶がある。空港には黄色に塗られた複葉機が並んでいた。板張りの滑走路の下の海は澄み切っていて、底に沈んでいるボルトがキラキラ光っていた。鶴見の花月園(戦後は競輪場になった)にも、会社の運動会で行き、模型飛行機のセットを貰ったことがあった。我が家ではこの時期を、「6丁目に住んだとき」と呼んでいるが、戦争になり、空襲が激しくなるまでの、つかの間の幸せな時間であった。

昭和1612月8日、朝薄暗い居間で朝飯を食べている時、ラジオは戦争が始まったことを告げた。父は「ああ、とうとう始まったか」とつぶやいたのが耳に残っている。高揚感も悲壮感もなく、ただ何か沈んだ声に聞こえた。それでも何も変わらない暮らしがしばらくは続いていたが、やがて戦局は厳しいものに変わっていった。

昭和17年に国民学校(今の小学校)に入学したが、それまでの私は問題児だったようで、ボーとしている知恵遅れと思われていたらしく、近所の子供たちに馬鹿にされ、いじめられていた。幼児のときにかかった中耳炎のせいで、人の言うことが旨く呑み込めず、直ぐ返事ができなかったのが原因らしいと悟ったのは最近のことである。相手の言ったことを聞き取れないため、自信がなく、大きな声を出せず、ものごとをはっきり言えない癖は、残念ながら、今でもある。しかし、不思議なことに、小学校の授業に夢中になり、成績も上がり、学年で2番になった。多分授業を聞くことが面白かったのだろう、脇見をせず前を一心不乱に見つめていたと聞かされたことがある。だが父はひょっとしたらと思ったのか、教え込む気になり、毎日勉強させたらしい。あまり勉学を苦にしていなかったようだが、習字は苦手で、毎日座敷の隅に追い込まれていた。字は今でも下手である。

昭和19年に学童疎開が始まった。疎開を心配する父は、布団は無くさないだろうと返事をしたこの子には集団疎開は無理だと判断し、縁故疎開に切り替えた。祖母の実家に祖母と二人で疎開することになった。六丁目の家には父と母と5歳下の弟が残った。

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 3.    三軒目と四軒目 1944-1945年(昭和19年―昭和20年) 

富山県西砺波郡醍醐村後正寺          

9歳から10歳

 

西砺波郡という行政区画はもうないが、富山県西側の砺波平野の西半分に当たる。この地域は散居集落として有名だったが、後正寺は、農家の周りに分家が集まるという配置を持つため、散居という形態にはなっていない。その農家の一軒が中山の姓を名乗る本家(おみや)で、周囲に「前の新居(まえならい)」、「西の新居(にしならい)」、「表の新居(おもてならい)」という三つの分家が囲んでいた。理由は不明だが、「前の新居」の姓は山中と変わっていた。当時、前の新居の当主は山中若次郎と云って、畠山ハツの長兄である。昭和19年夏、ここに縁故疎開をした。夏の末には父直が訪ねてきてくれた。父は軍需工場の購買担当で羽振りが良く、当時貴重品だった砂糖などを持ってきてくれた。それを見た表の新居の主がぜひ当家に来てくれと、私を引っ張って行ってしまった。貧乏な家だったが、ちやほやされた。風呂がなかったせいか、寒くなると虱が湧いた。虱は肌着の縫い目に列になってしがみついている。かゆいから、裏の神社で、真冬に裸になり、一匹ずつ虱を潰していった。

ところで、都会から田舎に移った私は、農作業にはまったく向かないことを早々と証明してしまった。鍬を田んぼに打ち込んだのはいいが、抜けなくなり立往生する、学校の宿題のイナゴ取りが出来ず、祖母ハツが代わって集める、肥溜めに落ちるなど典型的なドジな子だった。あまつさえ、国民学校に行く際、ランドセルを逆さに背負って走り、中身を道端に点々とバラまくなど、まったくいいところがなかった。それでも陽気だったらしい。父が山中の家に来た時、丸々と太った我が子が元気に飛び出してきたのを見て、涙が止まらず一旦表へ出て、入り直したと、後から聞いた。

昭和20年事態は暗転した。父が死んだ。44日未明、防護団幹部だった父は、警戒警報のサイレンが鳴ったので、夜中に工場に出かけ、そして帰らなかった。B29たった一機が工場に11個の爆弾を投下し、ことごとく炸裂した。この晩の品川地区で、空爆による被害はここだけであった。戦後パイロットが、爆弾が当たったかどうかを尋ねに来たという事実から、明らかに狙い撃ちされたのだ。父の衣服は焼け焦げ、腕が一本離れて転がっていたという。うつ伏せの姿勢を取っていたらしく、胸の部分は焼け残り、財布が残っていた。母は、財布の中の脂肪の滲んだ紙幣を銀行に替えに行ったそうだ。暮らしが立ち行かなくなった母は6丁目の家を人に譲り、弟清嗣を連れて、富山に辿り着いた。表の新居の態度が一変した。早くどこかに出て行けと言うことである。祖母の実家(前の新居)に詫びを入れて、何とか受け入れてもらった。そして戦争に負けた。熱い夏の日だった。静かな日だった。村はシンとして誰もいない。後で聞くと敗戦の玉音放送を聞きに村人が役場のラヂオに集まったらしい。戦後になり、疎開者達が戻っていった。しかし戻るところがない我々は始末に困る厄介者だった。前の新居の主人(祖母の兄)の機嫌を損ねることがあったのだろうか、祖母と母が土下座して謝っていた光景を思い出す。口惜しいけれど、私は何もできなかった。

子供二人と母親を食わせなければと母は職を探した。醍醐村の隣の戸出町の戸出物産に雇ってもらった。庄川近くの衣服縫製工場で、片道一時間以上かかる。朝暗いうちから出て、暗くなってから帰ってきた。夜帰ってきたとき、鍋に飯粒がないことがあった。祖母は子供たちが皆食べてしまったと答えるのを、私は布団の中で、身を竦めて聞いていた。働いたことのなかった母は、体が持たなくなり、一家で町へ移ることになった。

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 4.    五軒目 1946年(昭和21年) 

富山県西砺波郡戸出町古戸出(といでまちふるといで)

10歳

 

戸出町は砺波平野では古い町である。奈良時代からあったと云われる。古戸出は戸出町の西の端につながる集落で、醍醐村から戸出への玄関口になる。村と町の境に小川が流れていて、たもとに小さな店があった。小川で冷やした心太(ところてん)が美味しかった。古戸出町の場末にあった瓦葺職人の家に間借りした。かなり家の中は乱雑で、全く区切りがなかった。家族構成もはっきりせず、訳の分からない人々が出たり入ったりしていた。花札、トランプなど賭け事が行われていて、いつの間にか私は引き込まれ、毎日遊び呆けた。学校の成績はみるみるうちに下がった。母は慌てて引越し先を探した。孟母三遷の例を見習ったわけではなかっただろうが、札付き不良少年にならずに済んだ。

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 5.    六軒目 1946-1948年(昭和21年―昭和23年)

富山県西砺波郡戸出町 西部医院 

10歳から12歳

 

城端線というJRの支線が高岡から城端まで、北から南へと走っているが、高岡から4つ目の駅が戸出駅である。その戸出駅から西へと戸出の町が広がっている。町の中心は、城端線と並行する街道と金沢・富山の間を結ぶ旧北陸道(上使街道)が交わる「戸出の四つ角」で、そこから北へ少し行ったところにある西部医院の2階に間借りした。一部屋で、次の間は別の疎開者が入っていた。オーナーの医者は新米で、とても信頼できなかった。弟がはしかに罹った時、どうしても見立てが出来ず、熱は下がらず、とうとう母はこっそり別の医者に連れていった。危なかったのである。後年看板を下ろしたと聞いた。

私は醍醐小学校を卒業し、戸出中学に入学した。生徒会の役員に立候補した。候補者は演壇に上がって抱負を演説するのだが、私の番になり、立ち上がったのはよかったが、自分の名前のビラを出すのを忘れ、壇上で慌ててビラを広げ、前に吊るした。どーっと笑い声が会場に溢れた。人気者になった。女の子が何時も周りにいるようになった。校内の弁論大会でも生徒の投票では一位であった。教師達はそれほど甘くなく、3位だった。県大会に行った。しかし自分の出番が来る前に,チームは負けてしまった。悔しかった。学芸会で、お母さん役をやった。登場するだけで会場が湧いた。芝居ができるかもと一瞬思ったが、口が空滑りするから駄目と、あっさり教師に引導を渡された。

金が無かった。弟が母の財布からお金をくすねて、雑誌を買ってしまった。本屋に返しに行くので、大騒ぎになった。何とかして、お金を手にしたい私は、同級生の永森と夏見を引っ張って、富田新聞販売店に新聞配達をやらせてくれと頼みに行った。出来る訳がないだろうと頭から馬鹿にされた。何度か懇願して、では試しにやってみろと云うことになり、永森が東、私が中央、夏見が西地区の配達をするようになった。上手く行った。さらに何人かの子供が加わった。店は子供達でも配達ができると分かり、私たちが大きくなり、やめてしまった後も、子供達による新聞配達が続いている。永森は店の応援で富山大学に行ったが、麻雀に溺れて転落した。夏見はお金に困っている家の子ではなかったので、順調に暮らしていると聞いている。当時は中学生による新聞配達は少なかったようで、新聞記事にもなった。しかし、ここで、私は人生最初の裏切り行為をした。サボったのである。私の配達区域は町の中央通りだったが、一か所脇道に入るところがあった。朝の配達は面倒と、ここを飛ばして、昼休みに配ったのである。朝、新聞が入らないとクレームが入り、店では、あの子に限ってそんなことはないと言いきり、口論になった。店の責任者は富田家の長女だったが、どうやって始末したのか、聞けなかった。首にもならなかった。その時の経緯を都合よく忘れているのかもしれない。しかし裏切り行為そのものは今でも心に澱のように残っている。それでも仲間たちと一緒に新聞を配達することを続けた。新聞は朝一番の列車で運ばれてくるのだが、受け取りに行く度に、蒸気機関車の運転手と仲良くなっていった。乗って行けと云われ、終点の城端駅まで行き、折り返して戸出駅に戻るまで、運転室に居た。上からぶら下がっている細い鉄棒を引っ張って見ろと言われて、引っ張ると汽笛が鳴り響いて吃驚した。終着駅城端で転車台が回転して、蒸気機関車の方向を逆転させるのを眺めていた、面白かった。

昭和23年(1948年)になって、明治ゴム製造所から、東京に戻らないかという誘いが入った。工場防護のため殉職した従業員の家族の暮らしを助ける救済措置だった。当時の経済状況で、よくぞ忘れずに、助けてくれたと思った。12月に母と私の二人が東京に戻ることになった。祖母と弟を近くの寺に預けた。出発の日、戸出駅に戸出中学の生徒が集まった。「あの集まりは何ですかね」「疎開していた子が帰るのを見送りに来たそうです」「ほう」、列車の中で、隣の客がそんな会話を交わしていた。

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 6.    七軒目 1948-1954年(昭和23年―29年)

東京都品川区二葉町 二葉町寮 

12歳から18

 

東急電鉄大井町線下神明駅のすぐ前にあった二葉町寮に入った。寮は明治ゴムが1943年に松平忠正(旧信州上田藩主)から購入した屋敷だった。与えられた場所は脇玄関である。石の踏み台がある玄関を上がった場所の2畳とその続きの廊下の一部を使うことができた。廊下の続きには別の家族が住んでいて、中野稔という同級生がいた。1952年の血のメーデー事件のとき、彼の兄さんが追われ、警察が張り込みに来た。逮捕されたかどうかは知らない。水道は無かったが、屋敷の庭に井戸があり、毎朝水を汲んでいた。どのくらいの家族が住んでいたかは知らないが、かなり多かったと思う。

富山からの転校先は、品川区立荏原第3中学である。入学した当時、設立されたばかりの新制中学の校舎は無く、西中延にあった延山小学校に間借りしていたと記憶している。富山に居た時には都会の子、東京に来たら田舎の子と言われて、何かちぐはぐな動きをしていたらしい。何人かの生徒に囲まれ、兄貴分のボクサーだというのに絡まれた。「おまえ、とっぽいぞ」とやられたが、何のことか分からず、「とっぽいってなんや」と問い返した。途端に相手は笑ってしまい、それで終わりになってしまった。生意気という意味だと分かったのは大分後だった。それでも成績は良かった。母は、卒業したら働かせるつもりだったらしい。しかし担任の先生が高校を受験させろと説得し、この子なら合格すると口説いてくれた。それまで、この中学から誰も日比谷高校に入学できていなかったこともあり、学校としても受験させたかったらしい。しかし、明治ゴムは赤字続きで、母も事務方から現場に飛ばされ、先が見えないと、母は渋った。先生は受験だけでもさせてほしいとねばり、とうとう母は折れた。一回限りの受験だったが、試験に合格してしまった。朝鮮戦争で景気も良くなり、何とかなると母は思ったのだろう、入学を認めた。当人は受かったといい気になり、卒業式まで女の子と遊んで暮らした。卒業式の晩、未成年だということを完全に無視し、先生と飲み明かした。卒業後も先生の住まいに押し掛け、アルサロ(キャバレーのこと)に連れていって貰ったこともあった。女の子とも結構いい仲になり、先方の親から跡継ぎなので、付き合うなと引導を渡されたこともある。高校に入った後、たまたま合格したのだということをいやになるほど思い知らされた。入学して早々、英語のテストがあったが、ひどい点数だった。成績は大体真ん中位、たまに点数がいいと教師にへえという顔をされた。

科学研究クラブに入った。そこで、4人の仲間ができた。今でも付き合っている。当時は新制大学進学希望者が受けなければならない進学適正検査というのがあった。仲間の受験成績は、佐藤章一の点数が一番よく、二番目が私、須賀田が3番目、鈴木が4番目だった。章一は現役で、須賀田は一浪で、鈴木は二浪でそれぞれ東大に入った。経済的に私の受験は無理と承知していたものの、母に大学に行きたいと訴えて、怒った母にうどんを頭からぶっかけられた。就職のために、何社か試験を受けた。NHKや当時東京進出を計画していた大丸百貨店などの試験を受けたが、一次試験は通るが全て二次で落ちた。父親のいない子を採る大手はなかった。結局、株式会社明治産業という小さな会社に就職した。自動車部品の卸問屋である。昭和292月から勤め始めた。配属されたのは、輸出出荷係だった。わずかな輸出商品を梱包し、横浜港の乙仲(海運貨物取扱業者)に届けるのが仕事だった。商品をまとめて、それを詰める木箱の大きさを割り出し、箱屋に注文する。当時はオーダーメイドの木箱だった。商品を詰め込んだあと、蓋を大きな釘で留めるのだが、よく自分の手を叩き、血豆を作っていた。肉体労働をしたことがなかったので、すぐに疲れ、しょっちゅう鼻血を出していた。一方、なんとしても大学に行きたかった。当時夜に通っても正式な大卒の資格を得られる大学は東京都立大学しかなかったから、外の選択肢は無かった。また、技術系しか考えていなかったので、都立大学の工学系の校舎を見に行った。品川の鮫洲に多くの学科が集まっていたが、皆ボロボロな校舎で幻滅した。工業化学科だけが都立大学駅からそう遠くない理学部構内にあって、新築だった。ここに入ると決めて、受験することにした。しかし体調が悪く、受験場で鼻血を抑えながら、答案用紙を埋めていった。受験勉強は全くしておらず、日比谷にいたという実績だけが頼りだった。これは無理かなと思ったが、それでも合格した。会社は良い顔をしなかったが、黙認してくれた。昭和29年4月入学した。大学は昼夜開講制だったから、昼でも行けたのだが、やはり時間を捻出できなかった。

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 7.    八軒目 1955-1959年(昭和30年―昭和34年)

東京都品川区南品川 明治ゴム青年学校跡 

19-23

 

明治ゴムは二葉町寮を売却することになり、新しい寮に移った。今度は、昭和16年に開校した私立明治ゴム青年学校の校舎を利用した寮である。青年学校は小学校を卒業したあと勉強したい青少年のために作られたと聞いているが、戦前の明治ゴム青年学校の実態は不明である。今回の部屋は8畳一間であるが、少しは住むところというイメージに近づいた。

この寮から、朝、新橋田村町にある明治産業に出勤し、夕方、大井町経由で都立大学に通った。卒業するのに5年かかった。卒業後はセールスエンジニアになるつもりで、湯浅貿易株式会社という商社に就職した。物資課に配属され、化学品の輸出を担当したが、肝心の化学品ビジネスは大手商社の縄張りが決まっていて、割り込む余地はありそうもなかった。コレポン(コレスポンデンスの略)と称する売り込みレターを発展途上国に送りつける作業が主だった。湯浅貿易は、大正時代には、当時の大手総合商社の鈴木商店と並ぶほどの商社だったようだが、入社した頃は何とか生きながらえていると云った状態だった。得意とする業種は木材と飼料だったが、昔からの手もみ商法で、大きくなる素地があるようには思えなかった。会社としても、活性化を図るため、10人ほどの学卒を採用したらしいが、人材の育て方を理解しているとは思えなかった。同期に入った仲間内で、辞めていく人が多くなった。私も転職を考えた。

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 8.  九軒目 1960年(昭和35年)

神奈川県横浜市戸塚区上倉田町 新築自宅 

24

 

明治産業の給料にほとんど手を付けず、わずかだが資金が貯まったので、母は家を作ろうと土地探しをはじめた。あちこち探し歩いて、横浜市戸塚区に休耕中の田んぼを見つけ、50坪を分けてもらうことに成功した。坪4000円位だったと記憶している。当時の住宅金融公庫の個人向け融資を受ければすぐにも家を建てることはできるのだが、申込倍率は10倍で、すぐに当選する見込みはないと思ったものの、試しに応募した。ところが初回で当選してしまった。建てる準備は何もしていなかったので、慌てて建築屋を探した。結局土地を売ってくれた地主が面倒を見てくれて、地元の大工に建ててもらうことになった。田んぼに杭を打って、地面を固め、ごく普通の家屋を作った。時間に余裕があれば、もう少ししっかりした工事が出来たのかもしれないが、公庫の建築期限条件ではそんなことを言ってもいられなかった。案の定、2、3年経つと地盤が下がり、家全体がわずかに傾き、ふすまの開け閉めに隙間が出来た。でもまあ我々にしては結構な家が出来た。祖母は嬉しがり、母は得意げになった。

このころは、ベトナム戦争が始まった頃で、湯浅貿易では、米軍向け物資の出荷を担当し、また横浜港通いが始まった。握手のマークを張り付けた木箱を船に積み込んでいくのが印象的で、白々しい演出であることが歴然としていた。

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 9.  十軒目 1961-1963年(昭和36年―昭和38年)

京都府京都市中京区西ノ京坊町 春日寮 

25歳―27

 

転職を考え始めたころ、都立大の同期生(入学は同期だが、卒業は一年あと)から、誘いがかかった。島津製作所は光線、エックス線を使った計測機器を主に作っていたので、物理系の人材は充分いたが、当時販売を始めた、吸着・分配の原理を応用した分離分析機器(ガスクロマトグラフ)を扱うためには化学系の技術者が必要と分かり、人探しを始めていた。たまたま東京工業試験所で実験のアルバイト助手をしていた前記の同期生が採用されることになったが、更にもう一人探して欲しいと言われ、彼は私に声をかけてきたのである。採用試験をするから京都に来るように言われ、計算尺などを用意して行ったが、面接だけで即採用と決まり、昭和36410日に島津製作所に入社した(41日に入社しないと、後で勤続年数を一年少なく計算されると忠告されたが、前会社の退職に手間取り、間に合わなかった)。工場に隣接して造られた新築の寮に30人ぐらいの新入社員とともに入居した。当時分離分析法は新しい分析技術として登場し、大きな可能性を秘めていると評判だったが、手法の普及が追い付かず、顧客からの問い合わせが殺到していた。そこで、応用例を知らせるのがもっとも説得力があると、展示会を開き、学会に積極的に参加し、事例集をばらまくことになったが、手法開発のための時間が足りない。結局工場で夜中まで装置と取り組むことが多くなり、寮は仮眠所みたいになってしまった。残業しているという意識は全くなく、ただ応用例を作るのに没頭した。そのうち、装置を実演して見せることの効果が大きいことが分り、東京支店に分析ステーションというものを作り、京都から3か月交代で技術者を回転させることになった。結局寮には2年在籍したが、ローテーションの一員として、東京と京都を出入りする落ち着かない暮らしだった。それでも、たまの休みには京都の寺などを廻ることは出来た。まだ観光客は少なく、寺の庭を一日眺めて過ごすことができ、幸福だった.昭和38530日、東京に戻っていた時、祖母ハツが死んだ。胃がんだったが、末期には病院から連れて帰り、家で亡くなった。母、弟と3人で見送った。上げていた腕がすーっと下がり、それが臨終だった。厳かな瞬間だったと今でも思い出す。

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 10. 十一軒目 1964-1965年(昭和39年―昭和40年)

神奈川県横浜市戸塚区上倉田町 自宅 

28-29

 

分析ステーションを利用する顧客が多くなったことから、専属の職員として東京に戻ることになった。結構難しい依頼が多く、絶えず新しい分析技法を開拓し続ける羽目になり、論文を書く仕事も増えた。過度の疲労から円形脱毛症になり、なかなか治らず往生した。

一方母は嫁探しを始めた。放っておくと碌なことにならないと心配したのだ。以前から買いものに行っていた食料品店の長女をくださいと掛け合いに行った。明らかに格が上の家柄なのだが、自分も家を建てたという自信が母を踏み切らせたと思っている。そしてデートが始まった。銀座のお洒落な近藤書店でよく待ち合わせをした。昭和39510日に結婚式を挙げた。都立大の先輩が式関係及び新婚旅行の手配を全てやってくれた。彼女は旅行が好きで、すでに全国あちこち回っていたが、九州には行っていないということで、当時新婚さんに人気があった九州東海岸廻りのコースを選んだ。門司港、別府、宮崎、日南海岸、指宿と回ることにしたが、欲張って見物したため、宿屋に着く頃は疲れ果てていて、ただ寝るだけだった。

結婚式も終わって、日常の勤務に戻ったが、支店の片隅の一部屋の分析ステーションでは狭くなり、顧客の要求に対応するのが、難しくなったため、調布市に東京研究所を新設し、移転することになった。戸塚から調布まで片道2時間以上かかり、当時としては遠距離通勤となった。義父は遠すぎると心配した。

一方明治ゴムが事業拡大のため、工場を品川から神奈川県開成町に移転することになり、母も遠距離通勤を余儀なくされた。やはり片道2時間以上掛かり、続けられないだろうと、退職も考えたらしいが、通勤方向が都会から地方へと、通常と逆なので、往復による疲れは少ないと判断し、勤めを続けることになった(結局定年まで勤めた)。

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 11.  十二軒目 1966-1968年(昭和41年―昭和43年)

東京都調布市佐須町 

30歳〜32

 

前年(1965)2月長男が生まれ、仕事も忙しくなる一方なので、会社は見かねて社宅を用意してくれた。借家だが一軒家で、勤め先まで10分と近い。ついつい帰りが遅くなり、深夜なることはしょっちゅうだった。それでも通勤が楽になったためか、体重が10kgも増えた。

1967年海外出張の話が来た。3か月の予定だったが、度々出張期間が延長され、実際には8か月間海外に滞在した。この時の話は「ツッカーさんの古い旅日誌」の一部として本にまとめた。出張の間、妻は私の実家に手伝いに行き、社宅は無人になってしまった。家が傷むと家主からクレームが出て、19683月家主の都合もあり、社宅を変えることになった。

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12. 十三軒目  1968-1969年(昭和43年―昭和44年) 

東京都府中市白糸台 

32歳〜33

 

京王線府中駅から二つ手前の多磨霊園駅で降りて、多磨霊園南参道を歩くと、旧甲州街道と甲州街道に挟まれた区画に出る。その端にある借家に住んだ。何年か前訪ねてみたら、二間の平屋の家が残っていた。驚きであった。周囲の環境は様変わりしていて、昔の武蔵野の面影はまったくなかったが、その借家だけは残っていた。ただ板壁はまっ茶色に変色していて、経った年月を物語っていた。まるでお伽話のように残っていると、懐かしかった。

白糸台に移って2年目に2回目の欧州長期出張があり、生まれたばかりの長女の面倒も見ずに、また年末まで戻らなかった。この時、自動車の運転ができないと都合が悪いと言われ、出発前に慌てて教習所に通い、運転免許証を取得したが、初めて運転をした場所はルーマニアの片田舎だった。羊の群れを避けながら運転した。車を提供してくれた商社マンは車中でしばしば足踏みをしていた。怖かったのだろう。すまないことをした。(明治産業時代に無免許でルノーを運転し、外車にぶつけたことがあり、それから運転しようとは思わなくなっていた。運転していた車のブレーキが壊れていたせいだが、ぶつけた外車(米国製のビュイックだったと思う)には傷一つ付かず、自分の車は半分ぺしゃんこになっていて、相手は呆れたのか、黙って立ち去った。社内でも廃車予定の車だったので、何も問題にならずに済んだ)。

出張中に所属が変わることが決まっていたので、帰国後年末の僅か一週間で京都に引っ越した。今考えると無茶なことをしたと思う。結婚後から引きずり回され、子供連れで留守宅を一人で預かり、しかも引越しの連続で、妻にはかなり苦労かけたと思う。今更申し訳ないと云っても始まらないが、よく付いてきてくれたと感謝する。

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13. 十四軒目 1970-1971年(昭和45年―昭和46年)

京都府宇治市広野町丸山 

34歳−35

 

転勤した職員の家を社宅として借りた。この家の利点は電話が付いていることだった。妻にとっては初めての関西住まいだったので、土地勘もなく、その上亭主は相変わらず出張が多く不安だったようだが、電話があることを頼りに、持ちこたえた。

企画関連の部署へと職場を変えたのだが、課の方針と自分の考えが合わないことが分り、悩んだ。そのうち、ドイツへの出向・転勤の話が出た。1967年(昭和42年)の欧州出張時、代理店探しをしたのだが、適当な候補が見つからず、自社で支店を作るしかないと報告したが、それが起因の一つになって、1968年に商事会社と合弁の小さな子会社が設立されていた。最初は初代ということで部長級の職員を送った。一年後営業を開始するために実務クラスの技術屋と入れ替わったが、彼は商事会社と肌が合わず、帰国することになってしまった。代わりに、商事会社からの指名で私が引き継ぐことになり、島津ヨーロッパ有限会社へ出向することになった。全社製品を担当するため、1970年の後半を技術実習で過ごした。

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14.十五軒目 1971-1975年(昭和46年―昭和50年)

西ドイツ国デュッセルドルフ市オーバーカッセル地区メンヘンベルター 

36歳〜40

 

昭和46624日羽田を発って、ワシントン、ニューヨークで一旦降りて、駐在員から米国の様子を聞き(米国ではまだビジネスは始まっていなかった)、629にドイツのデュッセルドルフに着いた。到着早々、セールス、展示、据え付け、技術指導、修理と追い回され、住居の設定がなかなかできない。ドイツ国内は営業のシュタインホーフ氏(スタサンと呼んでいた)と、国外は代理店の営業マンと、客先を回る。何語を話していたか定かではない(つまり英語とかドイツ語など各国語をごちゃまぜにしたような会話)。あげくに(ドイツ語の)話が通じない技術屋を寄こすなと客に怒鳴られる始末。それでも一年後、何とかドイツ語で代理店のセールスマンに講義をしていた。ドイツ語会話学校に行ったこともなく、聞くに堪えない言葉だったと思うが、流石、売り方のセールスマンは我慢をして聞いてくれた。

10月になり、ようやく住まいを見つけた。デュッセルドルフ市街からライン川を渡ったところにある地域で、運よく新築のアパートが見つかった。居間26u、寝室15u、子供部屋10u、台所10u、玄関、バス、トイレ、地下物置付きと広く、居間南面は6mx2mの一枚ガラス窓で、結構快適な住まいであった。スーパーマーケットやタクシー乗り場も近く、運転免許証を持っていない妻には都合がよかった。今やその区域は高級住宅街になっていて、なかなか借家は見つからないそうだ。

私自身も自動車運転の実績がないので、家族が来るまで1万キロメートルを走っておくように忠告され、毎週土日にドライブをしていた。最初は怖いので、のろのろと運転するものだから、後ろの車が数珠つなぎになってしまい、申し訳なかった。文句が出なかったのが不思議なぐらいだった。だんだん慣れて、時速100km以上出すのが、当たり前になってきた。車はアウディのスポーツタイプで、スピードは出る。アウトバーン(自動車専用道路)なら、時速120140q位なら安定して走ってくれた。最高時速190qでも走ったが、流石にガタガタした(しかしこれはドイツでの話である。帰国後、一応車を買ったが、道は狭いし、道路に人がウジャウジャいて、運転を楽しめない。いつの間にか運転をしなくなっていた)。ドイツで車といえば、メルセデス・ベンツ、べー・エム・ベー(BMW)となるが、ベンツにすると日本からクレームがつくそうで、選択肢から外し(ドイツではベンツをタクシーに使っているぐらいなので、気にしなくても良いのだが、日本からは高級車を乗り回しているとしか思えないらしい)、べー・エム・ベーはハンドルが重く手に負えそうもない、と云ってもフォルクスワーゲンは遠距離には向かないということでアウディを選んだ。アウディはもともとスポーツカーだから、飛ばせることを売りものにしている。2000tだから馬力は小さく、ベンツ並みの装甲にするとスピードは出ない、そのため薄い外板を使い、軽量化していて、実力以上のスピードが出るようになっていたのだ。

半年遅れの年末に、妻は7歳の長男と3歳の娘を連れてやって来た。妻は飛行機に酔ってしまい、泣く子の面倒は同行した商事の人が見てくれた。着いてベッドに直行し、3日間は寝ていた。そのうち落ち着いて、子供を連れて買い物に行くようになった。ドイツ語を話せないと困ったらしいが、周りが助けてくれ、日本でもドイツでも暮らしには何の違いもないと納得していた。

待遇については、合弁会社なので、商社並みの給料をもらえた。内地なら役員級の収入に相当した。お陰で、衣類などは金の心配なしに買うことができ、多分生涯で最も金回りの良い時期だった。その代わり、仕事もきつく、月の内15日は出張していた。帰ってきてもレポート作成に明け暮れ、夜は時差を利用して、日本とテレックスのやり取りで、真夜中まで仕事をしていた。これでは家族連れの意味がないと嘆き、それではと、できるだけ家族旅行をすることにした。考えてみれば子供達には、旅行は災難でしかなく、悪かったと反省している。子供たちはほとんど旅行のことは覚えていないそうである。駐在員は、金を貯めて持ち帰るタイプと、旅行等で使い切るタイプの二つに分かれるそうだが、めったにない経験ができる機会を逃すのは勿体ないとお金を使うことにした。

4年後、累積赤字は残っているものの、売り上げが1億円を越し、当年度で黒字になったところで、後任と交代した。今考えると、そのままドイツに残るという選択肢を考えるべきだった。

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15. 十六軒目 1976年(昭和51年)

滋賀県草津市草津 

40

 

ドイツから帰国する際、転勤した社員の家を社宅として借りることになったが、京都市内では見つからず、滋賀県草津市に移り住んだ。草津は歴史も古く、東海道と中山道の合流地点でもあるが、江戸時代をそのまま生きているような町だった。初めて昔の日本と対面したと思った。草津での暮らしに比べれば、東京からドイツへ移った時の変化など、物の数ではない。子供たちのショックは強烈だった。まず言葉が通じない。ドイツの場合、互いに異なる文化、言語で育っていると自覚しているから、相手の立場を察することができる。しかし草津で生まれ育った人は、草津以外にも別の世界があるとは思ってもいなかった。担任のおばあさん先生は、娘が草津弁を話せないのは尋常ではなく、知恵遅れだと断定した。結果娘は学校へ行かなくなった。息子は年長なので、状況を多少は理解していたようだが、それでもダメージは大きく、すぐにキレるようになった。この時期が長く続いたら、家庭が崩壊していたのかも知れない。このままでは危ないと、はっきり分かっていたわけではなかったが、自分自身も土地に合わないと感じていたのだろう、ドイツに行く直前に買ってあった土地に家を作ることにした。

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16. 十七軒目 19771987年(昭和52年―昭和62年)

京都府宇治市広野町丸山 

41歳―51

 

家という建物を3回作った。最初の一軒は母と、後の一軒は息子と作ったが、宇治の家は夫婦で造った建物である。敷地は狭いので、2階建て、一階の居室は14畳、和室4畳半、台所6畳、2階寝室10畳、子供部屋6畳二部屋、物置6畳で、天井の高さをドイツ風に2mとした。子供たちはドイツ出向前に住んでいた土地に戻り、元気を取り戻した。息子は前に通っていた小学校へ通った。娘は、社の同僚のお姉さんが家庭教師をやってくれて、学力を取り戻した。草津で九九を習うのがこれからと云う時期、すでに宇治では終わっていたという悲劇にも遭遇した。草津も宇治も地方都市であるが、草津は滋賀県の中核都市で、宇治は京都・大阪のベッドタウンである。宇治では人が動くが、草津では人は移動しない。違いは大きい。宇治での10年は、毎朝子供が仲間と学校へ行き、夕方妻は子供が帰ってくるのを待つという普通の、安定した暮らしが出来た。息子は帰国子女ということで、同志社国際高校へ進学し、そのまま大学へ入った。娘は帰国子女としての条件が合わず、進学に苦労したが、一浪で北里大学に入った。

帰国後すぐに手ごたえのある仕事に出会った。昭和51年にガソリンの品質を確保するために、ガソリンスタンドにガソリンメーターなる装置を設備し、品質を確認するという法律が出来た。この情報を先に入手できたので、他社に先んじて装置を開発し、大半を受注することに成功した。このプロジェクトの渉外担当となり、官庁との折衝、営業支援、設計・生産の調整にと飛び回った。飛行機によって全国を駆け巡る日が続き、後続の他社と争ったが、先行開発のお陰で原価を大幅に下げることができ、大きな利益を上げた。結果として、かってない純益を計上するとともに、全社の長年の不良資産を一挙に廃棄することができたので、社として、かなり健全な財務体制になった。

翌年、米国へ進出した子会社の応援にアメリカに渡ったが、どうにも製品が売れない。売れない理由を探したが、分からない。対策を見つけたのは、帰国後であった。アメリカで必要なのは誰でも分かる取り扱い説明書だったのだ。それこそ子供でも使える説明書を作り、送ったところ、急に売れ出した。では、日本でもと思って日本語の説明書を作ったが、誰も見向きもしない。日本の場合、分からないことが出てきたら、メーカーを呼びつければ済んだ。アメリカの場合、国土が広すぎ、メーカーは飛んでこない、しかも人種のるつぼなので、オペレーターのレベルがバラバラである。客質が違うのである。調査とマーケッティングの大事さと違いを実感したが、日本では、このことを理解し、賛同してくれる人はほとんどいなかった。それとアメリカの雑誌への広告を担当した。英文のキャッチフレーズをひねり出し、雑誌に載せたが、どのくらいの効果があったか測定する方法は無かった。よく広告を出すなあ、とは言われたが。

この後、出番は無くなった。技術課長になったが、製品ごとのプロダクトリーダーが差配しているので、せいぜい出勤状況をチェックする位の仕事しかない。どうしたものかと考え出したころ、工務課長になった。庶務係みたいなもので、長居はできないと思ったが重要な仕事があった。年度末に、工務課で次年度予算を作る。工場会計の実態を知らないため、軽く見ていたのだが、なかなか呑み込めない。しかし組織を運営するためには不可欠な技能である。古参の係長が手ほどきをしてくれたが、悪戦苦闘した。逃げ出す算段をしたが、しかしこれが飛んでもない間違いだと気づかなかった。ここで苦労するべきだったと分かったのは10年後だった。それでも、この後の財団や協会の仕事で、経理をわずかでも齧って置いたのが運営に大いに役にたった。

結局1985年にライン業務からスタッフ業務へと移り、新規事業開発を担当した。毎月アイデアを役員会に提案するという条件で、年続けた。その後担当上司が変わり、置き土産に部長にしてくれたが仕事がなくなった。たまたま東京研究所長のポストが空いたので、厚木市に単身転勤することになった。

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17 十八軒目 1987年(昭和62年)

厚木市中町 

52

 

東京研究所は厚木市の中心から離れた丘陵地の裾野にあった。異分野を目指せと言うことで、外部から人を呼び、二つの新材料開発チームを作った。所長は全体を管理するのが仕事なのだが、テーマの一つ、材料精製プロジェクトには技術的にも参画することにした。後になって、企業化は無理と分かったが、アイデアを提供してくれた都立大学から、この内容ならドクターを取れると勧められ、博士論文を書くことになった。

研究所の場所が辺鄙なので、大半の職員は寮に住んでいたが、東京に出る機会が多いので、厚木駅に近いアパートの一室を借り、半年後に家族を呼び寄せることにした。とりあえず食事は寮で採ることになった。しかし周りには何もない、時間を持て余し、料理学校を探したが、当時男を受け入れてくれる料理教室は無かった。

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18. 十九軒目 19881989年(昭和63―平成元年)

厚木市旭町 

53-54

 

小田急線本厚木駅から南西に数分のところにある3階建てビルの3階を借りた。1階は幼稚園で、2階は倉庫だったような気がする。ここに家族を呼んで、腰を落ち着ける予定だったが、引越・片付けが完全に終わる前に、状況が変わった。まず、198811月に胆石の手術をした。年を越して、未だ厚木病院にいる時に、急に京都に戻れと言う命令が来た。島津科学技術振興財団の常務理事になれと言うことだった。厚木に行ったら腰を据えてくれと言われて来ているので、そう簡単には戻れませんと抵抗したが、前任者が急に辞めて、困っているので、急げと社長命令で追い立てられた。しかし宇治市の自宅を2年契約で貸していたので、自宅には戻れず、厚木市の社宅に家族を残すことにして、一人単身で京都に戻った。

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19.二十軒目 1990年(平成2年)

京都市右京区嵯峨天竜寺町

55

 

公益財団法人島津科学技術振興財団は科学技術研究者の表彰(島津賞)及び研究開発助成金贈呈を主な業務としていたが、常務理事としての役割は理事会の事務方であった。理事の大半は京大教授で、会社の大切なアドバイザーであり、また重要な顧客でもあったので、扱いを粗略にはできないと、常務理事には部長クラスを充てることになっていた。しかし、キャリアとしては終わりで、かなりがっくり来た。厚木の家は社宅として借りているので、もう一軒社宅という訳にはいかない。嵯峨野に小さい家を見つけて、一人住まいをした。

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20.二十一軒目 1991(平成3年)

京都府宇治市広野町丸山

56

 

1年位で、宇治の自宅の賃貸契約が終わったので、宇治の家に戻った。息子は就職し、娘は大学に入ったので、宇治には妻と二人になった。ところが、いわゆるバブル崩壊により、景気が悪化し、会社は財団へ資金を提供する余裕がなくなり、財団を縮小することになった。結果として、財団からまた新規事業開発担当に戻ったが、今回の職場は東京支社で、また単身赴任となった。

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21.二十二軒目 1992年(平成4年)

東京都世田谷区経堂 

57

 

小田急線経堂駅から10分位のアパートのワンルームを借りた。かなりの安普請で、あちこちがギシギシ鳴った。ここから神田の東京支社に通ったが、企業としては新規事業に取り組む意欲を失っていた時期で、事実上窓際族になった。

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22.二十三軒目 1993年(平成5年)

東京都品川区東大井 

58

 

経堂のアパートで、トラブルに巻き込まれ、大井町の小さなワンルームに緊急避難した。半年ぐらい居ただろうか。57歳の役職定年が近づいてきたが、何も考えつかず、ぼんやりと過ごしていた。月になり、社長から呼び出しがかかった。計量管理協会に行けということだった。計量管理協会は通産省(現経済産業省)が昭和26年に発足させ、産業界に計量思想を普及させるための社団法人だったが、設立40年後には、本来の目的はとうの昔に薄れてしまい、実状は計量に関する技術書の販売及び講習会を主な業務として、累積赤字の解消を図っているところだった。累積赤字の原因は売れない本を作り過ぎたためである。その団体を再建するのが責務であった。

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23.二十四軒目 19931995年(平成5-平成7年)

東京都品川区南品川 

58

 

新たな職務に移る前に、まず住居を整えることにして、経堂及び東大井を引払い、南品川の2Kのアパートに移った。3階だったが、建物が軽量鉄骨構造なので、音が響き、かなり悩まされた。

計量管理協会の専務理事になったものの、計量に関する知識は皆無だったから、とりあえずは前任者の手法を引き継ぎながら、計量人の知己を得ることに努めた。そのうち道が見つかるだろうと、手あたり次第なんでも聞きまくった。この年計量法の全面改正が行われ、国の計量標準へのつながりを確認できる制度(トレーサビリティ制度)が導入された。計量法の中では始めての任意の制度で、計量器を校正する能力を定期的にチェックすることによって、校正のレベルが維持されていることを保証する制度でもある。我が国では、一旦免許もしくは認可を取得すれば、その後に校正・試験のレベルや検査所の能力・実力を再審査しない制度が普通だったので、トレーサビリティ制度は初めての試みだった。任意だから、手元の計量器の性能の裏付けが欲しいユーザーが利用すればよいのだが、なかなか普及しなかった。国際的に計量の信頼性を問われる時代になり、ようやく利用されるようになった。この任意制度の普及活動を行う団体は特になく、計量管理協会が広報担当団体となった。この制度の広報を20年続けた。その辺については製品評価技術基盤機構(NITE)がメール出版したJCSS20年史に書いた。

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24.二十五軒目 1995-2005年(平成7年―平成17年)

東京都大田区大森本町

59歳―69

出向の立場から専属の職員になった機会に社宅を出て、自己負担の賃貸に変更した。珍しく10年住み続けた。

トレーサビリティ制度の定着を目標に、認定制度の普及を続けるとともに、海外状況の調査報告を行うなどで、制度の普及に寄与できたと思っている。遣り甲斐のある仕事だった。一方、新計量法で適正計量管理事業所という制度ができて、指定事業所は看板(標識)を掲示することができることになったので、看板の製作・販売を始めた。これが当って、1000万円近い利益を得た。これでしばらくお金は大丈夫と安心した。ところが、同じ計量中央団体で、一番古い日本計量協会の経営がぐらつきだした。日本計量協会は戦前からのメートル法広報団体だが、メートル法が定着するまでの100年の間、普及活動を続けた結果、メートル法は充分浸透したが、団体としての仕事は減ってしまった。この際、計量中央団体を統合し、新規の団体を作り、将来の計量活動を目指すという動きが出てきたが、それぞれの団体の思惑が簡単には合わず、時間がかかったが、2000年に日本計量協会、計量管理協会、日本計量士会の三つの中央団体が統合され、日本計量振興協会として発足し、専務理事に就任した。その後、全国の郵政公社の質量計の校正事業及び一般校正事業の拡大等で安定した運営ができるようになった。2003年頃、国として財団や社団に天下りしている元官僚が多すぎるという騒ぎがあり、65歳の年齢制限が決まってしまった。日本計量振興協会には元官僚の理事はいないので、対象外の筈だが、地方出身の協会の理事に引退を強いることになり、2005年には自分自身も辞めざるを得なくなった。

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25.二十六軒目 2005-2007年(平成7年―平成19年)

茨城県つくば市梅園

69-71

 

息子がつくば市に家屋を新築したので、近くにある産業技術総合研究所に頼んで、職員にしてもらい、住まいをつくばに移した。ちょうどこのころから、官である産業技術総合研究所と民であるユーザー任意団体の国際標準ラボラトリー会議(NCSLI)日本支部との合同フォーラムが始まっていたので、アメリカのように、官民の間を自由に移動できる社会を夢見て、このフォーラムの事務方を志願した。色々な話題が混在する面白いフォーラムとなり、10年続いたが、官民ともに、日本特有のお上優先思想を突き破ることはできず、官と民それぞれに分かれてしまった。

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26.二十七軒目 2007-2021現在(平成19年―令和3年)

東京都品川区南大井

71-85

 

つくばに移って年後、所帯生活を続けるのは難しいことが分り、また自動車の運転が負担になってきたこともあって、車の要らない都心に戻ることにした。しばらくは、フォーラムの仕事を続けていたが、産業技術総合研究所に通う回数も少しずつ減り、20143月で打ち止めとなった。この後は、ISO規格のJIS化委員会と計量関係法令例規集の編集委員会に参画しているが仕事量としてはそう多くない。つまり普通の暮らしに戻ったということである。

この期間の旅行としては、2007年 タイ、佐賀、博多、2008年 高岡、ドイツ、2010年 ベトナム、2011年 秋田、弘前、2012年 ドイツ、2013年 カンボジャ、ベトナム、2014年 沖縄、2015年 金沢、2017年 湯沢、氷見、2019年 熊本、八代を訪れている。それ以降旅に出ていないが、一応国内47都道府県すべてに足跡を残している。

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エピローグ

色々なことがあった。ずいぶん端折って書き飛ばしたが、生涯26回の引越しをまとめたものである。他の人より引っ越し回数は多いと思う。読み返してみると、急いで引越しをしたことや、またずいぶん無駄なことをしたことが分るが、これも人生と納得している。

これで転宅物語はお終いと思っていたが、そうでもなさそうである。実は、最近妻が脊椎圧迫骨折で歩行が難しくなってきたので、施設に移った。残った一人の身の振り方を考えると、まだ転宅の可能性がある。続きは老人ホーム物語になるかもしれない。

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