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著者略歴
吉田俊夫(よしだ・としお)
千葉県計量士会会員、東京計量士会会員。
計量管理研究部会理事で活動。
現在、(株)ピーコックストアで計量管理を実施。
千葉県計量検定所OB。
私の履歴書/吉田俊夫 INDEX
 『日本計量新報』2921号(2012年6月17日発行)より連載
著者略歴    
1.出身地と親と兄弟のこと 2.病院通いしていた小学校 3.海岸の高台にあった釧路市立弥生中学校
4.地元の普通科高校、釧路湖陵高校に進む 5.千葉県計量検定所勤務41年  
         
出身地と親と兄弟のこと

千葉県計量検定所勤務43年

 現在、人生の43年を計量に携わっています計量士の吉田と申します。このたび、「私の履歴書」の紙面枠を頂きましたので昔を思い出しながら回顧録を書くつもりで計量人生を振り返ってみようと思います。
 標題にあるように計量公務員として41年間を千葉県計量検定所に勤務し、2010(平成22)年3月31日に無事退職を迎えることができました。現在は、計量士として(株)ピーコックストア(首都圏の適正計量管理事業所)の計量管理を任されて、主にはかりの定期検査と量目検査を行っています。

出身地 釧路市のこと

 さて、私の出身は、北海道の釧路市です。
 釧路市は、現在の人口が18万人程です。ピークが1981(昭和56)年で22万人でしたが減少傾向にあります。この紙面をお借りして地元のために故郷のPRをしてみようと思います。
 玄関口の、たんちょう釧路空港に降り立ちますと連絡バスで市内まで約20kmですから1時間弱です。レンタカーを使えば国道240号線を市内方向と反対に向うと観光地の「まりも」の育成で有名な阿寒湖湖畔の温泉まで約60kmです。途中にある「タンチョウ保護増殖センター」も見所です。

釧路湿原と炭坑と 大漁港地

釧路市湿原展望台  国内最大の湿原で国立公園でもある「釧路湿原」を高台から見渡せる「湿原展望台」までは約15kmで、途中には釧路動物園もあります。湿原の中を大きく蛇行する釧路川でのカヌー体験の観光ツアーや、釧路駅から湿原を走る観光トロッコ列車「ノロッコ号」が運行されていて人気があります。これらによって「釧路湿原」に直に触れて体感することができます。
 産業は国内唯一の太平洋海底炭鉱をはじめとして豊かな森林資源を生かした製紙業の日本製紙、王子製紙の工場群があってこの高い煙突が、空港から市内に向って左手に見えてきます。
 また酪農を主体とした農業はもとより、世界三大漁場の一つである北太平洋漁場に近く漁業が盛んに行われ、釧路港は日本有数の水揚量でした。最近は北洋漁業の減船や操業自粛、北洋サケ・マス沖獲り禁止と厳しい状況下にあるようです。

団塊の世代、昭和24年生まれ

生まれは1949(昭和24)年4月8日で、俗に団塊の世代と呼ばれています。(昭和23年から25年の3年間をさし、約800万人以上) 先祖のことなどは、若くして地元を離れたこともあり両親から余り詳しい話を聞く機会がありませんでした。断片的になりますが父は、職業軍人で海軍でしたから横須賀の基地にいたそうです。

四男末っ子として生まれる

釧路湿原駅のプラットフォーム 父と母はこの横須賀で知り合って結婚し、長男が生まれました。1945(昭和20)年の終戦近くには戦火が本土に及ぶようになったので、母が長兄を連れて北海道に疎開しました。父はというと、日本が最終戦を迎えるべく総攻撃のため俗にいう「人間魚雷」に搭乗する直前だったそうですが、終戦を迎えて命拾いをしたと聞いています。
 戸籍上の兄弟は4人ですが、長男は、1942(昭和17)年の戦前生まれで、二男は1946(昭和21)年に生まれましたが生後直ぐに亡くなり、三男は1947(昭和22)年に生まれています。私は四男末っ子として生まれました。

父はNHK釧路支局に勤務


釧路湿原駅駅舎前父は、日本放送協会(NHK)釧路支局に勤務し、受信料の集金員をしていました。父の思い出は書が上手だったことで、「NHKのど自慢大会」が釧路で開催されたときなどに標題の文字を書いていたということです。
 生活は、普通だったと思います。この時代は戦後、経済の復興が始まったばかりで国民全体が厳しい状態だったと思います。住んでいるところは道営の住宅でしたから、隣近所みんな同じような生活状態で共同感・連帯感があったように思います。

外に出れば遊び仲間がいた


 子供時代は、近所のおばさんからは声を掛けられたり、おやつをもらったり、よそのお兄さんにも遊んでもらったり、また同年代の友達も大勢いましたから、外へ出れば必ず誰かがいました。いまの子供は、少子化ということもあり、前もって約束をしなければ遊べないのではないでしょうか。遊び方も全然違っているでしょう。

外紙芝居、チャンバラ、鬼ごっこ

 当時の子どもたちの遊びはというと、道具を使わない「鬼ごっこ」「手つなぎ鬼」「缶けり」「相撲」などでした。紙芝居のおじさんが自転車で町内を廻ってきていました。それとは別に、近所に絵の上手なお兄さんがいて子供達を集めては、紙芝居をやってくれましたし、棒切れでチャンバラごっこの相手もしてくれました。ときには、近くの野山に連れていってくれました。いまの時代では、いろいろと難しいことになりそうな気がします。このお兄さんは、その後やはり絵描きを続けていました。

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体が弱く病院通いしていた小学校入学のころ

小学校は1クラス50人で5クラス

阿寒湖岬展望台私が入学した小学校は日進小学校といい、生徒数が多かった時代ですから1クラス50人位で5クラスありました。よく遊んだ友達としては、小学校から高校まで一緒のトヨタレンタカーで役員になった土谷君、板金屋になった馬渕君、薬剤師になった小野寺君、刑務官になった長谷川君、自衛官になった本間君などがおります。
 この人たちとはよく遊びました。なかでも土谷君の父親は刑期を終えた人々の社会復帰を支援するする仕事で、釧路慈徳会を運営されていました。土谷君はその施設が自宅でしたから、その家は広く部屋数が多く長い廊下もあったので、走り回ったり相撲をしたりレスリングのまねごとをしたりする子どもたちの格好の遊び場でした。家中を走り回ったり暴れたりして良かったのか悪かったのか、怒られた記憶も思い出せませんが・・・。

逆立ちが得意になった小学高学年のころ

釧路湿原国立公園にて末っ子であった私は小学校入学のころは体が弱く、病院通いばかりしていました。小学生のころは、もっぱら2歳違いの兄にくっついて遊んでいました。そのせいか体が小さい割に運動神経は結構よかったと思います。
 小学校の高学年になってから体操クラブのようなところに入って飛んだり跳ねたりしていました、とくに逆立ちが得意でした。学芸会で「将来のオリンピック選手たち」の垂れ幕のもとで、マット運動などを発表したことを思い出します。

釧路市内には映画館が5館ほどあった

子供のころの楽しみといえば、たまに連れていってもらう映画でした。当時は、いまと違って2本立て、3本立てで上映していたので半日見ていました。入場制限や入れ替え制などはなかったので、いつまでも見ていられました。当時は映画が娯楽の中心でしたから市内に映画館は4〜5館ありました。今は、郊外型のアウトレット・ショッピングセンターの中に1か所あるだけです。
 映画の見方も違っていました。時代劇は勧善懲悪ですから悪人を征伐する場面では館内が盛り上がり、歓声と拍手が湧きあがったものです。いまでは見られない風情です。

流行の映画は時代劇

そのころの映画は時代劇が主流でしたから、片岡千恵蔵の『紫頭巾』、『多羅尾伴内 七つの顔の男だぜ』、大友柳太郎の「快傑黒頭巾シリーズ」、大川橋蔵の「若さま侍捕物帖シリーズ」「新吾十番勝負シリーズ」、中村錦之介の「紅孔雀シリーズ」「里見八犬伝シリーズ」、市川歌右衛門などで、これらは好きでよく見ていました。年末恒例の東映「忠臣蔵」は、好きな俳優が大勢出演し豪華なものでした。
 映画を見た後の楽しみは、普段はできない外食ができたことです。いつもラーメンでしたが嬉しかった思い出です。

              
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海外の高台にあった釧路市立弥生中学校

中学校は1クラス50人で11クラス

中学時代は1962(昭和37)年から64(同39)年で、通った学校は釧路市立弥生中学校といい1クラス50人で11クラスありました。学区内には小学校が2校ですから、小学校の倍の人数が入学してきていました。

いまも残る石灰専用鉄道

釧路市立弥生中学校は太平洋に面した高台にありました。この海岸線に沿って石炭運搬専用鉄道が通っており、いまも太平洋炭鉱(現釧路コールマイン)の「釧路炭田」(現釧路炭鉱)から釧路港までの引きこみ線「太平洋石炭販売輸送 臨港線」が残っています。

炭坑列車がこぼした石炭を拾い集める光景

子供のころ記憶した光景として、運搬車両が通過したあとにはこぼれ落ちた石炭で線路内が黒くなっており、この石炭を近所の人はバケツを手に拾い集めていました。
 夏の砂浜では一面に昆布を干す光景も見られましたが、砂浜の浸食が激しく、いまは陸地から十数メートルまでテトラポット群が敷き詰められて、海岸線の景観は様変わりしています。
 ときの流れでしょうか。母校の中学校は閉鎖され「釧路市医師会看護専門学校」に変わっています。

真面目が買われて風紀委員に

羅臼国後展望塔前にて私は真面目が代名詞の中学生であったので、担任の先生に風紀委員にさせられ、友達からは敬遠されていたかもしれません。
 とはいうもののその頃は今流のイジメはなかったと思います。学校に番長なるグループがいて別の学校のグループと喧嘩をしていたようで、今と違い一般生徒を巻き込むことはほとんどない時代でした。
 中学のクラスメートには、後に自衛隊に入隊して南極地域観測隊の一員として観測船(たしか「ふじ」)に乗船した者がおり、羨ましく思ったものです。

数学が得意科目に

この時代は、勉強の楽しさに気付いた時でした。算数が数学に代わり公式を覚えることで簡単に答えが導かれることが楽しくなり得意科目になっていました。反面、英語も覚えなければならないのですが、数学のようには、すっと答えを導くような到達点、満足感が得られずに苦手科目となり、試験用の勉強に留まりました。今でもアレルギー状態のままです。釧路市立弥生中学校は太平洋に面した高台にありました。この海岸線に沿って石炭運搬専用鉄道が通っており、いまも太平洋炭鉱(現釧路コールマイン)の「釧路炭田」(現釧路炭鉱)から釧路港までの引きこみ線「太平洋石炭販売輸送 臨港線」が残っています。

修学旅行は体調不良でさんざん

思い出となるとほとんどの方が「修学旅行」と答えるでしょう。私の場合は、苦い思い出となっています。
 3年生の5月に2泊3日で札幌へ行きました。釧路から札幌まで列車で札幌からはバスで観光のスケジュールでした。1日目は旅館に1泊するだけでしたが、旅館に着く頃から体がだるくなり40度近い熱がでて直ぐに布団の中でした。その結果、残り2日間はどこへも出られずに駅前で手土産を買って帰ってきただけでした。
 この時の出来事がトラウマになって、高校の修学旅行は初めから行く気になりませんでした。因みに高校の旅行先は、京都を中心とした関西方面でした。

テレビの大相撲に夢中

このころ家にやっとテレビが入り、よく大相撲を見ていました。名横綱と言われた弟子屈出身の大鵬が1960(昭和35)年に初入幕してからどんどん強くなり、夢中で見たものです。
 また、大瀬康一主演の『隠密剣士』も好きな番組で、忍者役の霧の遁兵衛(牧冬吉が演じていました)が印象に残っています。
 藤田まこと主演の『てなもんや三度笠』や、NHK番組でハナ肇とクレージーキャッツ、渥美清、坂本九、黒柳徹子などが出演していた『若い季節』や『夢で逢いましょう』などは、一家団らんでよく見ていました。お笑いものは今も昔も視聴率がとれるものですね。しかし、何といっても東京オリンピックの開催が、テレビの普及に一役買いました。

高校進学の勉強は、ながら族

高校進学の勉強は、ラジオでプロ野球の中継を聞きながらという、まさに「ながら族」でした。北海道には当時プロチームがなかったことや、読売ジャイアンツの試合しか放送されていなかったことなどによるのでしょう、北海道の人はほとんど巨人ファンだったと思います。
 私の勉強方法は大体が自己流の勉強で、予習に重点を置いて講義で理解するという方法でした。英語は苦手でしたが学科の平均点は60点強でしたから、高校受験ではあまり心配していませんでした。回りの友人たちもほとんど進学できました。

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地元の普通科高校、釧路湖陵高校に進む

釧路湖陵高校はクラス53名で9クラス

高校時代は1965(昭和40)年から67(同42)年で、釧路湖陵高校という普通校でした。受験は緊張感もなく普段の力が出せればとだけ思っていました。この湖陵高校が自宅から近く徒歩で15分位でしたから、これが同校を志望した一番の理由でした。将来は進学するつもりで、勉学に励んでいました。私のクラスは53名でしたがクラス数は9クラスでした。クラス分けが面白いというか美術、書道、音楽と芸術ごとに選択がありました。

親友とおなじクラスに  

私は、音楽は苦手で、書道も気が進まなかったので、美術を選択してAクラスでしたが、小学校からの親友の土谷君や馬渕君とも同じクラスになり、心強く思ったものです。

1基を20人位で担ぐ行灯の市内巡航  

摩周湖にてこのAクラスのメンバーは普段はバラバラなようでいて当時からまとまりがあり、担任と対立したときや学校の行事の対応など、何かが起こると結束するところありました。
 文化祭は「湖陵祭」と呼ばれていました。
前夜祭には、1基を20人位で担ぎ揚げる程大きい行灯(あんどん)を、クラス対抗で数週間かけて手作りして市内をひと巡りし、市民の皆さんにも見てもらって湖陵祭のアピールをしたものです。本祭もクラス対抗で演劇や模擬店、サークル活動の発表があるなど歴史ある文化祭となっています。
 クラス対抗の発表会では、Aクラスは、演劇を練習していました。引っ込み思案の私は、見て応援する側でしたので詳細は忘れましたが、ヒトラー時代のドイツの家庭での生活を演出したもので大変好評を得ました。
 ここで感じたことは、同じ舞台に立っていたらさぞかし楽しく連帯感を感じられ、将来の生き方も変わっていたのだろうと。

生物クラブの微生物班で3年間遊ぶ

 クラブ活動は生物クラブでした。魚類班は、釣りができるということで人気が高く真っ先に定員オーバーとなるため、私は微生物班に入り3年間遊びました。
 高校の近くに春採湖という周囲約5kmの湖があり、国の天然記念物である「春採湖ヒブナ生息地」として指定されています。
 そこで微生物(主にプランクトンですが)、を採取してきて毎日顕微鏡を覗いては、種類、数量、分布などを調べて記録していました。当時は文化祭の時に発表するのが目標だったと思います。

現在もクラス会開き交流

 この高校のときのメンバーが40年以上経て現在も、地域ごとにクラス会を開いて集まっています。地元を離れた私としては大変懐かしく、思い出話に花を咲かせています。

湖陵祭の行灯(あんどん)行列は風物詩

 1956(昭和31)年にはじまったとされる湖陵祭の行灯行列は、釧路に秋の到来を告げる風物詩として市民から親しまれていました。新校舎移転の際、中断を余儀なくされるという憂き目を見ましたが、すぐに復活。道路交通法の関係で昔に比較すると規模は小さくなってしまいましたが、今なお健在です。

高2のときに父が倒れる

 人生の分岐点といえば、1967(昭和42)年の高2の授業中、父が倒れたと突然の知らせがあったとです。職場で脳出血により意識を失ったのです。その後、父の意識は戻りましたが言語障害と半身不随の後遺症を抱え、リハビリの人生となりました。
 このとき、長兄は高卒で既に大手生命保険会社に勤務していて、父に代わり吉田家を支えてくれていました。次兄も高校卒業後、石油関係の会社に就職していました。

就職へと方向転換

 私は、高3になり進学か就職かの選択をしなければなりません。進学でも経済的に私立は無理でやはり就職へと方向転換せざるを得ませんでした。しかし1度だけ試験に挑戦してみて、受かれば進学の望みを残しながら頑張ってみようと考えましたが、残念ながら失敗しました。

計量教習所入所へと向かう進路

 そのときに就職と決めましたが、どこが良いのか分りませんでしたので、まず短期間に手に技術をつけるとか何かの資格があった方が有利ではないかと思いました。 しかし、若かったからでしょうか公務員になることは全く考えていませんでした。そこで専門学校などの各種学校を紹介した雑誌を調べていると、目に止まった学校が二つありました。一つは気象関係の仕事を目指すもので、もう一つが「計量教習所」でした。  教習期間が5ヶ月間と比較的短期であること、費用が余りかからないこと、国の機関であることなどが決め手で、直ぐに後期の入所試験を受け合格しました。これが私の計量人生への扉でした。

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千葉県計量検定所勤務41年

計量教習は57名の大所帯

 1968(昭和43)年の後期計量教習は、第33期で大所帯の57名が学んでいました。場所は新宿区河田町の通産省地質調査所分室の4階にあり、近くに東京女子医大、当時のフジテレビ、税務大学校がありました。
 私はフリーでの入所だったので当座の住まいに困っていました。そこで、入所式のときに水島教官(故人)に相談したところ大変助かる措置をとっていただき、教習所の修了後は公務員コースに進むということで、寮に入ることができました。私の場合、北海道出身なので本来は、北海道・東北組の部屋なのでしょうが、定員のことがあり九州・四国組の部屋にお世話になることになりました 。

私を除く皆が、地方庁から派遣された社会人

 計量教習所には、地方計量職員のための寝泊りができる大部屋が4部屋ほどありました。4階に北海道・東北組6名、北陸・中部・東海・千葉組5名、関西中国組5名の3部屋、3階に九州・四国・中国組5名の1部屋で、研修生の約4割にあたる21名がここで生活していました。私を除く全ての寮生が、地方庁の検定所と特定市から派遣された社会人でした。同室の寮生が、夜、新宿方面へ飲みに行くことも多々ありました。

私の役目は門限破りの手助け

 当時の私は未成年で、酒、タバコはやっていませんでしたから、一緒に外出することはありませんでした。
 施設には門限があり、確か10時頃でした。当然、先輩方は門限に間にあうわけはありません。そこで私の出番となります。帰ると外から声が掛かり、私が1階のトイレの窓のカギを開けて無事帰還させるという、重要な任務を任されていました。
 祝祭日は、教習は休みですから殆どの方が外出していました。隣にあったフジテレビ局の見学に行く方、近場の自宅へ戻られる方、都内見学、映画鑑賞など、休日の過ごし方はいろいろでした。
 私が心強かったのには理由がありました。実は、大手生命保険会社に勤めていた長兄が転勤で横浜支社にきていて、東横線沿いの元住吉の社宅寮にいましたから、休日のたびに休養と栄養を補充することができたからです。

第33期は新宿区河田町での最後の期

 私たちのこの第33期は、新宿区河田町で教習した最後の期でした。当時の計量教習所長は、物静かな佐藤朗さん。そして、教務班長がチョット怖そうな矢萩さん、技術班長が優しそうな中原さん、大変お世話になった教習係長の水島さん他数名の体制だったと思います。
 教科の講師では、「物理学」が松原先生、「数学」が小泉先生、「単位」が岡田先生、「秤」が高橋先生、「体積」が穂坂先生、「温度」が酒井先生などが思いだされます。
 計量器の構造や検査方法、計量管理の基礎知識から物理・数学にいたるまでの講習を、頭を抱えながら受講していました。
 当時の修了式では、修了証の他に2枚目の賞状がありました。
 成績1番だったのは計量研究所大阪支所の中野さんでした。

思い出に残る第33期同期生の人々

 私にとってはこの寮生活が、その後の計量人生において人脈が日本全国に広がるきっかけになりました。
 年上で部屋長の宮崎県の今西さんは大変几帳面な方で、毎週土曜日には部屋掃除の号令がかかり、全員で畳の拭き掃除、ガラス磨きまでしたものです。2年先輩の福岡市の清水さんと愛媛県の近藤さんは明るく楽しい方々で、いつも笑いが絶えませんでした。卓球で国体出場した山口市の前野さんには放課後に卓球で相手をしてもらい、自己流ですが程々にうまくなりました。
 修了後も2年ごとにそれぞれが幹事になり、地元での観光も兼ねて集合していたものです。今も年賀状などで互いの近況を確認しています。

「計量教習」は、1952年が第1回

 翌年、1969(昭和44)年4月の第34期からは、東村山市の通商産業省研修所に移転しました。
 教習所について記録に残そうと思い少し調べてみました。通商産業省計量教習所が、1979(昭和54)年11月付けで編冊した『計量教習修了者名簿』が関係機関に配付されました。これを見ていたら、懐かしい名前を見つけることが出来ました。
 「計量教習」は、1952(昭和27)年を第1回として開始されましたが、この前身に「度量衡講習」があります。これは1903(明治36)年に発足して1951(昭和26)年の旧計量法が施行された年の第43期まで続きました。

教習修了時には計量公務員の募集が

 さて2月に教習が終了し、その後の進路についてはいくつかの選択を考えました。水島教官の配慮で5カ月間安心して勉学ができ、約束したとおり公務員になることは決定でしたから、問題はどこに行くかでした。
 都道府県の計量検定所においても、当時の経済の右肩上がりに連動するかのように職員の募集が続いていましたから、計量教習所をフリーで修了した者にはありがたい募集でした。
 後述談ですが、私の場合、地元釧路の両親のところへ、北海道計量検定所釧路支所の中村支所長さん、石井さんがわざわざ自宅まであいさつにきたと聞きました。

国立大学夜間部に通うために千葉県へ奉職

 私は、新しい土地で一からスタートしたいと思っていましたので、地元へ戻ることは全く考えていませんでした。もう一つは、大学へ進学できなかったことが気持ちの中に拘(こだわ)りとなっていましたので、できれば大学の夜間部に行けたらと考えて国立大学で夜間部がある茨城県か千葉県に絞っていました。
 茨城県へは、小松さん(元所長)が就職を決められていましたので、千葉県にお世話になることに決めました。また、同期で千葉から教習にこられていたのは、計量検定所からは鈴木清さんと大野和夫さん、千葉市からは鶴岡賢一さん、市川市から檜貝達郎さんでした。

勤務の傍ら千葉大学工業短期大学部に通い卒業する

 3月上旬に夜間部の千葉大学工業短期大学部を受験しました。試験当日には、印象的な出来事がありました。
 1969(昭和44)年頃は、東大の安田講堂事件があり学生運動の真っただなかでした。千葉大学においても例外ではなかったようです。試験中にヘルメット、タオルで顔を覆った5〜6人が乱入し、ハンドマイクを持って一頻り騒いでは混乱させていました。
 それでも試験は続けられました。適正な判定ができたかどうかは別にして結果は合格して3年間通いましたが、正直、学問は身につきませんでした。学校に通った意義は、友人・親友ができたことでしょうか。

計量教習での講師を勤める

 計量教習所の話はさらに続きます。計量教習所は、2001(平成13)年12月17日の閉所式を迎えるまで32年間、東村山にありました。計量教習は現在は、つくば市の(独)産業技術総合研究所計量標準管理センター計量研修センターに引き継がれています。
 計量研修センターと私の係わりは、1998(平成10)年頃から一般計量教習課程のなかに「ガスメーターと水道メーターの実習」が組まれており、それまで東京都が講師の派遣をしていましたが、(株)竹中製作所、京葉計器(株)の2メーカーあった千葉県が講師の派遣を引継いだのが始まりでした。
 講師派遣は、現職のときは私を含めて数人で対応していましたが、2011(平成23)年4月からは、私が講師経験者であったことと、退職後計量士としての活動を開始することから、当面、個人として協力することになりました。
 現在も年に2〜3週間程は、つくばの計量研修センターに出向いています。歴代のセンター長の桜井慧雄先生、秦勝一郎先生、小島孔先生、根田和朗先生とも御面識いただき、計量界の一員として大きな財産となっています。

1969年4月1日、辞令受ける  

千葉県計量検定所 無事に千葉県に採用され、勤務先は既に内定していた計量検定所ですが、1969(昭和44)年4月1日、県庁で辞令を受けてから、千葉市作草部(さくさべ)町の計量検定所の事務室で所員の皆さまに紹介いただいて計量公務員としての第一歩を踏み出しました。これからの41年間を千葉県の計量行政とその時代の計量に関する出来事や世相を交えて振り返ってみようと思います。
 千葉県計量検定所の位置は、北緯35度37分、東経140度6分のJR千葉駅から北方向約2km強の所にあります。ちなみに重力加速度の大きさは9.79768m/s2です。アクセスは、JR千葉駅の東口正面を出て千葉都市モノレールの駅から千城台方面に乗り二つ目の「作草部駅」が最寄駅。徒歩でも25分くらいですから、大賀ハスで有名な千葉公園のなかを通り、程なく隣接する千葉競輪場の前を抜けると作草部駅前に到着です。

奉職後、鈴木清さんのアパートに一月間借りする

 千葉県に来て最初の問題は「住い」で、ただちに独身寮の申込をしました。即日の入居は無理でしたが、建設中の寮に5月以降の入居ができることになりました。
 空白の1カ月は、救いの神が降りてきました。教習所で同期だった鈴木清さんのアパートに間借りさせてもらい助かりました。千葉県に来て最初にお世話になった恩人です。

当時の千葉県計量検定所長は宇佐美鋼三郎氏

 1969(昭和44)年の千葉県計量検定所は、所長は宇佐美鋼三郎氏(故人)で1967(昭和42)年の就任から3年目を迎えていました。組織は、総勢29名で、総務課、検定第一課、検定第二課、検査課の4課がありました。私は、体積計(ガスメーター・水道メーター・燃料油メーター旧法ではガソリン量器という。)の検定の第二課に配置されました。

当時の検定第二課8名の思い出に残る人々

 1年目の課のメンバーは、やはり計量人生においても記憶に残り、現在も長くお付きあいいただいています。
 当時の検定第二課は8名で、課長は将棋が趣味の能勢力さん、主席は小林春吉さんで、定年後、1982(昭和57)年から1993(平成5)年までの12年間、千葉県計量協会の事務局長として活躍されました。次は、第14代目の所長の斎藤博之さんで、現在の計量協会の事務局長です。次の方は、私にお酒やマージャンや競馬などの遊びを教えていただきました鶴見昭治さん、次の方は、教習所同期の鈴木清さんと大野和夫さん、7人目は、お酒が飲めないが聞き上手であり仕事を直接に教えてもらいました塚本祐司さんです。

当時の仕事は毎日がガスメーターの検定

 千葉県はガスメーターの製造メーカーを抱えていましたので、毎日がガスメーターの検定の仕事でした。千葉県では、ガスメーターの手数料が検定手数料総額の7割前後で推移していました。当時のガスメーターの検定は、2人1組で一人が基準器の指針を見て、もう一人が受検器の指針を見ながら最初の読みの時に「ハイ!」と声を出します。基準器担当者がその声の時の基準器の指針を記録します。一定量通過する時に終りの読みで「ハイ!」と声を出して知らせるやり方でした。

はかりの定期検査は1967年6月から有料に

 実は、この2人1組の掛け声方式はこの年で終りとなり、受検器の手元にスイッチを取り付けて1人で検定ができる方式に変わっていきましたので、貴重な体験をしたわけです。1994(平成6)年から自動検定装置が導入され、検定の効率が図られてきました。
 旧計量法は、1951(昭和26)年6月7日に公布され、数回の改正を経て1993(平成5)年11月1日に全面改訂するまでの42年間以上、検定や検査は国の機関委任事務として国内において共通の施行がされてきました。はかりの定期検査については、1967(昭和42)年6月から有料となり、検査周期は、市の区域は毎年で町村の区域は3年毎でした。今の全地域2年周期となったのは新計量法施行の1994(平成6)年11月からでした。

計量行政協議会を組織

 ここで千葉県の定期検査を円滑に実施するための施策を紹介します。旧法の下、機関委任事務として市町村には計量器の事前調査の説明や計量月間に立入検査権限の一部を委譲するために、市の段階(定期検査周期は市が毎年でした)の対応でしたが、26〜28市計量行政協議会を組織していました。
 具体的な内容は、各市の定期検査の実施時期の決定と「計量に関する適正計量」についての巡回指導という事業を千葉県計量士会の協力を得て実施していました。11月の計量強調月間に各市管内の商店街へ計量士を派遣して、市の職員に同行していただき、「はかり」についての定期検査の受検の可否、設置と水平状態、風袋引きの意識付け、計量表示方法などについて調査と指導をおこなう訳です。
 この協議会は1967(昭和42)年頃から開催され、当時は、県と市の担当職員との懇親も重要なことと考え、年1回、1泊2日で各市が持ち回りで実施していました。

県と市の協力関係は円滑

 このような背景があり、県と市の協力関係は大変円滑なものでした。新計量法の施行期の1993(平成5)年からは定期検査の自治事務化と、検査周期が市区域と町村区域とも2年間に変わって実質の運営が困難となり、1993(平成5)年の開催を最後に計量行政協議会は26年間の任務を終えました。現在は事務的な定期検査説明会のみとなっています。

千葉県の特定市は5市

 千葉県の特定市は、現在5市あります。1962(昭和37)年4月指定(後1992〔平成4〕年4月政令指定都市)の千葉市、1968(昭和43)年7月指定の市川市、1962(昭和37)年指定(後2003〔平成15〕年4月中核市)の船橋市、1983(昭和58)年4月に松戸市、2008(平成20)年に中核市の柏市です。県と特定市との連携を図る目的で、計量行政機関協議会が1967(昭和42)年頃発足し、現在に至っています。

アポロ11号が月に着陸

 当時の世相を見ると、この年(1969〔昭和44〕年)、アメリカ(NASA)の月着陸宇宙船アポロ11号の着陸船「イーグル」が、月面「静かの海」への着陸に成功しました。渥美清主演で人気の『男はつらいよ』シリーズ第1作が上映されました。ちなみに、遺作は、1995(平成7)年の第48作『男はつらいよ寅次郎紅の花』です。

1970年に斎藤勝夫氏が2回目の所長として着任  

基準こうかん 私の検定所勤務2年目の1970(昭和45)年から、斎藤勝夫氏が2回目の所長として着任しました。斎藤所長の1回目は、1963(昭和38)年から1966(昭和41)年の4年間でした。当然ですが、当時新人の私には、斎藤勝夫氏の有名さ、偉大さが全国区の方とは知りませんでしたが思い起こせば計量行政の姿勢などいろいろな面で勉強させてもらいました。
 2年目から検査課に異動し、1973(昭和48)年まで4年間、県下の市町村、たしか80市町村だったと記憶していますが、全てを廻ることができました。市町村の担当者の方々には、大変お世話になったことが思い出されます。
 検査用具は、前もって市町村の役所へ運搬しておきましたし、検査期間中は役所の車で用具を運んでおいてくれましたので私たち検査員は、定期検査証印を持参し体一つ、列車で移動していました。
 通常の検査時間は、10時に開始し午後3時までの告示でしたから昔は、行き帰りは最寄駅まで送り迎えをしてもらい助かった思い出があります。

トラックスケールの検査方法に「基準こうかん方式」を全国に先駆けて導入 

基準こうかん 大型質量計(通称トラックスケール)の検査方法に「基準こうかん方式」を全国に先駆けて導入しました。活用期間は1971(昭和46)年から10年間くらいだったでしょうか、これは、検査能力の10分の1の分銅で検査ができました。額板の上に三角形のやぐらを一対組み、基準こうかんを設置します。20kgの検査分銅1個を載せると200kgの荷重を加えたことになるわけです。使用する検査用分銅が少なくてすむことから効率的に検査ができます。多少、組立の準備や20kg分銅の載せ降ろし等に人手が必要で運搬するクレーン付大型車両1台と検査員等の移動用にライトバン1台の2台で5人が係わっており、今の時代ではコストがかかり過ぎ。一時期、計量教習所の実習見学に取り入れられたこともありました。

1974年、計量士の登録区分が一般と環境の2区分に

 1972(昭和47)年には、計量法の改正があり「秒」「ケルビン」「カンデラ」の現示方法の改正、積算熱量計、振動計を計量器に追加、家庭用計量器制度の新設、電気式タクシーメーターや30kg以下の光電式はかりの追加、指定検定機関制度の創設等がおこなわれました。1973(昭和48)年の省令改正で騒音計が検定対象になり、1974(昭和49)年、計量法の一部改正で計量証明事業に環境計量が加わり、計量士の登録区分が一般と環境の2区分となりました。

1975年千葉県計量検定所の職員数は33名で最大に

 千葉県の組織は、1973(昭和48)年から検査課が検査第一課と検査第二課に分かれ5課制になりました。所員数は、増加しつつ1975(昭和50)年には、33名となり最大になっていきます。
 この1973(昭和48)年から1976(昭和51)年頃の社会の出来事は、原油大幅値上げによる石油ショックの始まりとなり狂乱物価からトイレットペーパーの買い占め現象などがニュースになりました。この影響で1975(昭和50)年に開催予定の東京モーターショーが中止となっています。
 巨人軍の長嶋茂雄氏が「巨人軍は永久に不滅です」の名言を残し引退したのもこの年でした。一方、千葉県では、全国高等野球大会で銚子商業が優勝して土屋投手は中日へ、篠塚選手は巨人に入団しその後の活躍はご存じのことと思います。県民が喜んだのは翌年の同大会も千葉県の習志野高校が優勝し連覇したことでした。
 政治の話題では、田中角栄前首相がロッキード疑惑で逮捕されたことでしょうか。

計量畑でない田中義一氏が所長に着任

 私は、1975(昭和50)年から検定第一課に異動となり1980(昭和55)年までの6年間で質量計の検定、圧力計、温度計、浮ひょう、タクシーメーターの検定を経験していました。1979(昭和54)年の所長は、初めて計量検定所出身者ではない方で機械金属試験場から田中義一氏が1981(昭和56)年まで2年間着任されました。また、この年から次長制が導入され現在に至っています。この年の省令改正は地方庁にとって、今後の業務に影響のあるもので基準器検査の一部委譲でした。内容は、タクシーメーター用基準器・基準面積板・液体メーター用基準タンクでした。1980(昭和55)年の政省令の一部改正では、電気式タクシーメーター、光電式はかり、電気式アネロイド型血圧計の型式承認が対象となりました。また、環境計量器のジルコニア式酸素濃度計、磁気式酸素濃度計、振動レベル計の検定が開始された時期でもあります。

検定所分会長(労組)としてした仕事

 私の別な一面を紹介したいと思います。労働組合活動に関連したことです。
 計量検定所は、出先機関ですから労働組合といっても支援団体的なことが中心で、難しいことはやっていませんでした(当時の関係者には叱られるかもしれませんね)。どちらかというと親睦団体的な活動で職場の潤滑油になっていたと思います。昔から管理職の所長以外は組合員でしたから私が計量検定所に勤務した時点で自動的に組合費が天引きされていました。
 1969(昭和44)年の採用から10年が経った頃に役員交代で私が分会長を引き受けた時に職場のために何かできることはないかと考え、機関紙を発行しようと思い立ちました。

機関紙「計量ニュース」を第67号まで5年間発行

 良き先輩協力者を得て手作りの機関紙「計量ニュース」第1号を1979(昭和54)年4月21日に発行しました。組合的な内容では皆さんに見てもらえないので主に計量検定所の出来事を中心に書きました。主な内容は、とりあえずトップは組合情報の報告、以下は自由に月間行事等のお知らせ、計量法関係情報、クイズコーナー、人物紹介などでした。人物紹介は、所員の皆さんに自己紹介的に原稿を書いてもらい協力してもらいました。きっと厭に思っていた方もいたと思いますが何とか全員に書いてもらい盛り上げてもらいました。月刊発行に務め1984(昭和59)年10月の第67号まで5年間続けることができました。私としては、この時期の活動は、自己成長の上で貴重な経験となっています。

千葉県大型店協議会を通じて官民一体となって適正計量を実施

 計量普及事業で思い出がありました。それは斎藤所長の時代で1964(昭和39)年に県内の百貨店や大規模スーパーを対象として「千葉県大型店協議会」が設立されていました。その事業の一環として会員店舗の店員教育を目的に所員2名組で営業終了後の午後7時頃から「計量講習会」のために足を運んだものです。若い時でしたから恥ずかしいやら終えた時の安堵感など複雑な経験でした。
 また、大型店協議会の諸活動は、正に官民一体で適正計量を実施しようと具体的な行動施策が提案され実施していました。千葉県では、6月(中元期前)と11月(歳暮期前)の各1カ月間を「計量正確強調月間」と位置付け会員店舗全店に取り組みを依頼し、その月間中に会の理事と所員と巡回店舗の担当者の3人で1日3〜4店舗巡回指導をおこなったものです。

ユニットプライシングなどのPR活動

 今の時代では、困難なものもあるとは思いますが、1つは、「計量月間の懸垂幕・横断幕・立て看板等の掲出状況」、1つは、期間中にお客様への広報活動「計量に関する店内放送・計量催事(「重さ当てクイズ」など)の実施」、1つは、「計量月間中のリボンの配用」、1つは、「自主的量目検査の実施」、1つは、「ユニットプライシングのPR活動」その他計量教育活動等をチェックシートを用いて確認し、その年に会長および検定所長連名の表彰をおこなうなど適正計量事業に大きな貢献を果たしていました。会員は、最大の時で120店舗以上であったと思います。後日談ですが、今の計量士活動の巡回検査の時に、店長や次長さんの年代の方から千葉県の計量指導は厳しかったと言われることが偶(たま)に聞こえて。

百貨店の催事場を借り上げる規模で実施した「くらしと計量展」

 消費者啓発向けの計量思想普及事業として、1979(昭和54)年まで実施したのは「商品計量競技大会」という流通大型店で実際に計量をおこなっている方々による「正確さ、スピード、商品の扱い等」を競うことで計量意識、啓発を高めるという競技で12回を迎えていました。対面計量から事前計量に移行の時期だったのでしょうか。翌年1980(昭和55)年には、第1回の「くらしと計量展」へと変わっていきます。当時の検査第2課長であった関幸男氏が中心に企画実施されました。
 この「くらしと計量展」は、実行委員会を立上げ県予算が付くなかでの実施でしたから百貨店などの大型店の催事場を借り上げる程の規模でした。広く消費者にアピールできる企業の協賛も求めて11月の「計量月間」に実施し10年以上継続し、さらに1983(昭和58)年からは6月の「計量月間」にもミニ計量展として第1回「計量なるほど展」を実施していました。県予算のカットによる自前実施に限界が来たことで、県単独スタイルの計量展は後退し、現在の県内市町村の実施する消費生活展に協賛する「計量コーナー」としてパネル展示とクイズ、100g重さ当てゲームなど消費者向けの啓蒙活動は続いています。

昭和56年小林一正氏が所長に着任

 1981(昭和56)年、斎藤勝夫氏の右腕といわれた小林一正氏が1983(昭和58)年までの3年間、所長に着任しました。この年は、検査第1課を検査課に、検査第2課を指導課に名称変更しての5課制でした。私は、新採の年と2回目の検定第2課に異動しましたが1年後の1982(昭和57)年には指導課にトレード(?)され、1986(昭和61)年までの5年間所属して、関幸男指導課長には立入検査と計量啓発事業をみっちり叩き込まれました。当時の指導課員のメンバーはそうそうたる方々で鶴見昭治さん(その後の次長)、時田孝一さん(その後の課長〔故人〕)、米谷賢徳さん(その後の所長)の5人でした。

楽しかった一泊二日の親睦旅行会

 この頃(1981〔昭和56〕年)に月1回の週休2日制の試行を経ながら土曜日の半ドンがその後、今のような全休になりました。私にとってもこれまでの土曜日の午後は、貴重な交友の場として大いに活用していたものです。職場のイベントとしては、麻雀大会の企画、体力測定のまねごとですが保健センターのアドバイスを受けながらでしたが数回やりました。一泊二日の親睦旅行会が楽しかったですね。ほとんどが大型バスを使ったユッタリ移動でした。車中に乗り込むや直ぐ缶ビールなどが配られ車内は宴会状態になっていました。今時の若者には受け入れられないのかもしれません。40数年間の旅行先の記憶をたどって見たいと思います。

旅行先は北海道の札幌や函館にも及ぶ

 旅行先としては静岡県の日本平から久能山・三保の松原、稲取温泉、熱海温泉から富士山、十国峠、土肥温泉、伊豆方面に行くことが多かった。福島県の会津方面、栃木県の鬼怒川温泉や川治温泉、群馬県の老神温泉、水上温泉や四万温泉、山梨県の石和温泉、神奈川県の湯河原温泉、目先を変えて地元房総方面も忘年会を兼ねたりして、東京都内観光も2、3回行きました。高速道路の整備延長にともないけっこう遠方まで足をのばし、群馬県の草津温泉、長野県の昼神温泉、愛知県の西浦温泉、宮城県の作並温泉、岐阜県の飛騨高山、新潟県の月岡温泉、飛行機で北海道の小樽・札幌と函館方面と2回。いい時代だったのでしょうか。
 1983(昭和58)年の社会面では、「東京ディズニーランド」が千葉県浦安市に完成オープンした年です。その後、「東京ディズニーシー」は遅れること18年後の2001(平成13)年の事です。私は、子供が小さい頃に2回ほど行ったきりですし「東京ディズニーシー」へは、行ったことがありません。

特定大型はかりが検定対象に追加

 1982(昭和57)年から1983(昭和58)年の計量法関係では、特殊容器製造事業者の指定有効期間を3年から5年に延長、政省令改正で電磁はかりが計量器に追加、家庭用はかりを販売事業登録の対象計量器から削除、電気抵抗線式はかりのうち特定大型はかりが検定対象に追加、都市ガスメーターの有効期間が10年に延長、基準湿式ガスメーターで1回転が20L以下のものが知事検査に委譲などがありました。
 知事の権限となった基準器検査については、現在では検定・検査制度を維持するためにも検定所の重要な業務になっていると考えます。

中村正夫氏、奥田雅史氏の所長時代

 1984(昭和59)年の所長は、中村正夫氏(故人)が1986(昭和61)年までの3年間着任されました。
 中村所長は、計量出身者ではなく国際空港調査室から本庁工業課を経て検定所次長として2年前からきておられました。
 組織には、大きな変更はなく5課制、所員数も31か32名で推移。1983(昭和58)年に通商産業省計量課が計量行政室に名称変更しています。1984(昭和59)年は、メートル条約加盟100周年の記念行事がおこなわれ、1985(昭和60)年には、つくば科学万国博覧会が開催されています。
 1987(昭和62)年からの所長は、工業試験場から奥田雅史氏が着任し、1990(平成2)年までの4年間でした。この時期の政省令の改正は、圧力の補助単位にヘクトパスカルを追加、巻尺等7器種を計量器から除外、直示天びんが検定を行わない計量器から除外、基準台はかりの一部を知事に委譲、日本国有鉄道の民営化(JR)にともない計量器使用事業場(現、適正計量管理事業所)の指定権限を知事に移行などです。
 世相では、映画俳優の石原裕次郎が亡くなりました。

1988年頃がピークだった

 1988(昭和63)年に所の組織が変わります。検査課を検査第一課と検査第二課に分離し6課制になりました。業務の分業化、専門化ということになります。その業務の内訳は次のようなことです。
 管理職は、所長、次長、総務課長で総務課は、予算の執行と庶務全般公用車(大型検査車有り)の専任運転手が2名配置されていました。検定第一課は、質量計、タクシーメーター、圧力計、血圧計、温度計、浮ひょう、体積計を除く計量器全般で検定第二課は、ガスメーター、水道メーター、ガソリン量器、液化石油ガスメーター等の体積計、検査第一課は、定期検査の小型質量計の集合検査と電気式はかりの巡回検査、検査第二課は、定期検査および計量証明検査の大型質量計、指導課は、立入検査全般と計量思想普及事業でした。この時代が計量行政の職員が一番多く事務量がピークだったのでしょう。
 私は、この時期は2度目の検査課で1990(平成2)年までの3年間ですが計量証明事業者指導と証明検査を担当していました。
 1989(昭和64:平成元)年は、昭和天皇が1月7日に死去(88歳)され、元号が平成に変わりました。昭和天皇は日本国第124代の天皇でした。また、中国では天安門事件が起こり、ドイツではベルリンの壁崩壊がありました。歴史の変わり目だったのでしょうか。
 この年にわが国初めての消費税(3%)が導入されます。
 計量法の政省令で消費税導入による手数料等の改正があり、電子体温計のJISが制定されます。
 世相では、歌謡界の歌姫美空ひばりが亡くなりました。

小林芳郎所長時代の計量法の動き

 この年の計量界では、計量研究所が保管している日本キログラム原器(No.6)が50年振りにパリにある国際度量衡局において、国際キログラム原器との比較校正がされました。
 1991(平成3)年の所長は、小林芳郎氏が1992(平成4)年までの2年間着任されました。
 小林所長は、計量出身者ではなく工業試験場から、検定所次長として1984(昭和59)年から1986(昭和61)年までの3年間の経験者でした。
 計量法の政省令の改正があり、石油ガスメーターの有効期間の延長、アネロイド型血圧計の技術基準の改正等でした。また、中央では「近代計量制度百年記念」の行事が催されました。

1992(平成4)年5月20日に「新計量法」が公布

 1992(平成4)年5月20日に、「新計量法」が公布されました。国際化・技術革新への対応及び消費者利益の確保の視点から抜本的に改正されました。その柱としては、国際単位系(SI単位)の採用、計量標準供給制度の導入、指定製造事業者制度の創設などです。
 1993(平成5)年の所長は、計量出身者の藤代渡氏が本庁主管課から戻られ、この年1年で退職されました。

計量記念日が6月7日から11月1日に変わる

 この年は、前年に公布された「新計量法」が11月1日に施行されましたからこの11月1日が現在の計量記念日となっているわけです。ちなみに、それまでの計量記念日は、6月7日ですがこちらは旧計量法(1951[昭和26]年法律第207号)の公布の日でした。
 他では、機械電子検査検定協会が日本品質保証機構(JQA)に名称が変わりました。
 世相は、サッカーでJリーグが発足したことでサッカーがメジャースポーツになるスタートでした。千葉県にも「ジェフ市原」(現ジェフユナイテッド市原・千葉)が誕生しました。その後、柏レイソルがJリーグに加盟し、皆さんもご存じのとおり2011(平成23)年にJ1に昇格してすぐの初優勝でした。

指定製造事業者審査特別教習第1期生38名のなかに藤田益司氏

 この時期の私は、3度目の検定第二課に異動し1年で翌1994(平成6)年には検定第一課へ異動、組織が新計量法に対応をする動きによるものであったのかどうかはわかりませんが。当時の江波戸次長に指定製造事業者審査特別教習に行くように指示されました。千葉県からは、先輩の塚本祐司さんと2人でした。この教習は今後、都道府県が指定製造事業者の審査の際の検査員を養成するための教習として位置付けられ全国から38名の参加で進められました。2週間という短期間でしたので、これまでの計量行政では経験していない知識・情報であり、正直難しい内容ばかりでした。また、第1期生の名簿を見てビックリで、各都道府県から派遣されたのは中堅以上の方々でしたから、修了後は、全国に人脈と情報網ができあがっていました。私自身の計量行政に対する見方が大きく変わり、目から鱗が落ちるようでした。この教習中に同室になったのが埼玉県の藤田益司氏であり、その後も御指導と親交を続けさせてもらっています。

1994(平成6)年鈴木義衛氏が所長に着任

 1994(平成6)年に、計量出身者ではない鈴木義衛氏が工業試験場から1997(平成9)年まで4年間着任されました。新計量法の執行に尽力された方でした。
 翌年の1995(平成7)年に組織変更がされ、これまで業務関係の筆頭課が検定第一課でしたが新設の企画啓発課が筆頭課に位置付けられました。他でも検査第一課と検査第二課を統合し検査課に戻されましたが、実質の6課制が維持されました。この年から私は、企画啓発課に異動となり1996(平成8)年までの2年間、1997(平成9)年の1年間は検定第一課で質量標準管理マニュアル(素案)作りを担当し、翌年1998(平成10)年から1999(平成11)年の2年間、再度企画啓発課に異動しました。

通達集編集に携わる

 この鈴木所長になってから私に特命的な事務を担当させてくれ、所長会議や全国行政会議への随行、関東甲信越地区の連絡会議、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県の4都県ブロック会議等々の担当などほとんどの会合に出席していました。
 1996(平成8)年から1997(平成9)年にかけて新計量法の施行にともない従来の通達行政が廃止されることから、都道府県計量行政協議会の要請で通達集作成検討委員会が組織され、通産省計量行政室の山本様、東京都の印南様、小林様、神奈川県の小堀様、埼玉県の藤田様、横浜市の田中様、千葉市の三浦様、千葉県の私、吉田が委員で「通達集」として編集に携わることができました。引き続き地区世話人の東京都が中心となり、新計量法の施行後数年の運用状況と地方分権一括法の準備が進むなか、計量に関する基準等については通達等の形で全国共通の判断が確保されていたわけですから、これを整理して一つは省令に格上げできるか、一つは告示として大臣名で整理するか、一つはガイドラインとして整理するかを検討したものです。
 この時期に各県から参集された担当者が、東京都は、元指導課長の印南武雄氏、小林武志氏他、埼玉県から藤田益司氏、金井一榮氏他、神奈川県から元所長の山口明光氏、西川茂氏、加藤節夫氏他、千葉県から江澤昌夫氏と私が定期的に作業を進め、終了後の反省会での飲み会も貴重な意見交換の場として楽しいひと時でした。
 この時期は、計量法の法令解釈等に関する見直し検討が全国的な規模で組織された法令解釈検討委員会で協議され、その結論を確定版として全国都道府県、特定市の共通認識事項として共有されました。これらは、後の「計量法関係法令の解釈運用について」や「ガイドライン集」となっていきました。
 世相では、1995(平成7)年1月に阪神・淡路大震災が起こりマグニチュード7.3(初めての震度7を記録)、死者は発生当時戦後最多となる6千人以上の大惨事となりました。また、3月には、東京都の地下鉄でオウム真理教が起こした化学兵器(サリン)を使用した無差別テロ事件も発生しました。

指定製造事業者審査における計量法令とISO規格の整合で苦労

 1996(平成8)年は、千葉県で第1号の指定製造事業者が11月27日付けで(株)エルクエスト(当時は、ウエダ製作所という)が、血圧計第一類(電気式)で指定されました。この時の話を少し書こうと思います。ウエダ製作所から相談を受けたのが2年前で検査員は、研修第1期の塚本さんと私、第2期の米谷さんと江澤さんの4人で担当しました。指定製造事業者制度の指定検査は、検査機関である日本品質保証機構(JQA)等の民間機関の審査によるか都道府県が直接おこなう指定検査かの2通りですが、申請者からすれば費用が格安な都道府県を選択するようでした。
 当該事業者とは、申請までの準備期間約1年間以上にわたり血圧計の製造工程や検査方法の実態等、数回の視察をおこないました。指定検査は、省令に基づく20項目の品質管理の方法書の作成と実績の記録等が必須です。われわれ検査員もこの20項目の内容について共通認識を図らなければなりませんでしたから毎週1回ペースで時間外の勉強会を開いていました。事業者との質疑で困ったことは、この頃には、国際的な品質システムのISO9001などの民間での普及が推進しはじめておりましたから計量法の品質管理の方法とISOの品質システムとの比較についてすり合わせることでした。
 事業者側が、ISO規格でよいのではないかといえば私たちは、法令的解釈から省令に規定された通りに構築することを説明したものです。結果、初期の頃は、折衷的な表現になってしまったり、無理やり表現を拡大的に解釈したりまた、事業者マニュアルを尊重するあまり省令上の1項目についていえば、社内規格のいろいろな場所を見つけなければならない煩雑な作業の繰り返しでした。

1997(平成9)年3月にガスメーターで(株)竹中製作所が指定

 千葉県としてもこれまでに経験のない検査でしたので事業者に対し本検査の前にJQAによる事前の模擬審査(1日コース)を受け、かつ私たち検査員の同行を依頼したところ受け入れられました。模擬審査の当日は、JQAから2名の審査員が見え、一人は小林善男氏、もう一人は片桐拓朗氏でした。お二人の審査風景を目の当たりにして感じたことは、私たちに厭(いや)、私にこのようなやり取りができるのだろうかという自問でした。
 的確な質問と事業者の品質マニュアル以下の関連規程類の検索の早さ、質疑・解説等の対応についても多弁ではなく簡潔なやり取りでありました。私としては、この経験も今後の指定検査を実行するうえで貴重な手本になりました。
 1997(平成9)年3月には、ガスメーターで(株)竹中製作所が指定を受けました。その後、2004(平成16)年10月に血圧計第1類でフクダ電子(株)が指定されました。2005(平成17)年3月にガスメーターで京葉計器(株)が指定され、4社が指定製造事業者として現在に至っています。
 私としては、これらの指定製造事業者の指定検査の全てに携われたことも計量人生の一頁であります。
 1994(平成6)年からのこの時期が私の計量行政人生で一番忙しく難しい時期であった思います。しかし見方を変えれば一番の人脈という財産を得ることができた時期でもありました。

関東北5県の計量検定所職員が集まる「清遊会」は楽しみであった

 1996(平成8)年の計量界では、トレーサビリティ制度(JCSS制度)の認定事業者の質量計で島津製作所が認定第1号でした。
 1997(平成9)年には、関東近県の計量検定所の行事の一つが任務を終えたことに触れてみようと思います。それは、関東北5県(埼玉県、栃木県、千葉県、茨城県、群馬県)の「清遊会」という1年に1回輪番制で計量検定所職員が集まる会がありました。この会は大変歴史があり1955(昭和30)年以前から始まったようで近県における計量行政の情報交換を通じて共通的な認識の確認や検定所職員の親睦を図ることを趣旨として発足したと聞いています。会は、当番県の観光地を巡りゆっくり温泉につかり、夜は大宴会でした。参加人数は少ない時で50人から多い時で100人近くであったと記憶しています。
 若い頃は、この会のおかげで行政会議等に1人で出席しても他県の所長さん、課長さんから職員の方々と既に知り合いになっていましたからあまり緊張することなく参加できたものです。
 このような会も時代とともに、各県の職員が増加するなかで任務を終えたということでしょうか。半世紀近く続きましたが、5県の合意のもと、この年の埼玉県秩父の開催をもって終了しました。心情的には非常に残念なことでした。
 世相は、消費税が5%にアップした年です。また、東京湾横断道アクアラインが開通しました。千葉県にとっては、産業・観光へ大きな期待がありました。

江波戸俊朗氏、小野俊一氏の所長時代

 1998(平成10)年に所長として、江波戸俊朗氏が着任されました。
 江波戸所長は、計量出身者でしたが1994(平成6)年から1997(平成9)年までの3年間、本庁主務課の保安課に異動後の登板となりました。
 世相は、長野冬季オリンピックが開催され、メダル数が史上最高の金5個を含む10個獲得しました。
 1999(平成11)年の所長は小野俊一氏で、2002(平成14)年までの14年間の勤務でした。

1999年、計量法の都道府県事務が自治事務に区分される

 1993(平成5)年に新計量法が施行されましたが、1995(平成7)年には地方分権推進法が公布され、1999(平成11)年地方分権一括法が公布されるなか、計量法の都道府県事務が自治事務に区分されました。これにより検定業務から定期検査業務すべての手数料を都道府県・特定市の条例で定めなければならなくなりました。この作業に関しては、1998(平成10)年、1999(平成11)年を準備期間として都道府県の計量会議が頻繁におこなわれましたし、近県間の情報交換も必要でした。私は、1998(平成10)年に企画啓発課に異動していましたのでこの条例案作成を担当し、1カ月のうち3日か4日は、東京都計量検定所や経済産業省へ足を向けていました。

手数料を都道府県・特定市の条例で定めることになってこれを担当

 条例の作成については文書課(現政策法務課)へも相談に行くのですが検定所単独では進められませんので主務課の保安課担当主幹にも協力していただきました。
 国から手数料の算出根拠に関する資料の配布を受けて参考にしました。千葉県の手数料条例の構成要素の一つは人件費で、業務の所要時間に職員の平均単価を乗じた数値、一つは設備・備品等に要した費用、一つは設備・備品の減価償却費、これらに必要な人員数や実績数等を勘案してすべての検定・検査業務についてデータとして算出してみました。
 その結果、おおむね国の手数料額に近似したものであったことで煩雑さを避けるために基本的には国の手数料額とほぼ同額とした金額で千葉県手数料条例に追加し2000(平成12)年4月施行されました。
 手数料の値上げの条例改正の見直しを3年ごとに検討しましたが人件費単価が十数年以上大きなアップがなく変わらないことで当初の構成要素では現行手数料額を上回る根拠が得られないことから現在まで改正はしていません。今後は、2008(平成20)年に庶務担当者が作成した構成要素の計算方法を合理的な形に変更しましたのでこの資料に基づき計算できるようになっています。
 1999(平成11)年の計量界では、斉藤勝夫元所長(故人)が春の叙勲で「勲5等旭日双光章」を受章されました。私ごとですがこの年、計量記念日式典で深谷隆司通商産業大臣より地方公務員永年勤続30年感謝状(翌年から廃止)を受けた最後の公務員になったのが思い出となりました。
 世相では、プロ野球で王監督の率いるダイエーホークスが球団創設11年目で日本一になりました。

2000(平成12)年、国の省庁再編で通商産業省が経済産業省に改称

 2000(平成12)年は、国の省庁再編で通商産業省が経済産業省に改称し、計量行政室は産業技術環境局知的基盤課の所属となりました。前述のとおり、地方分権元年としてスタートした年です。千葉県では、質量標準管理マニュアルに基づく「高精度恒温高湿室」が設置されました。
 世相は、シドニーオリンピックで高橋尚子選手が日本女子陸上競技史上初めての金メダルを獲得し、その後国民栄誉賞も受賞しました。

計量教習所が計量研修センターに移行

 平成13年は、2001年ですから21世紀の始めの年です。計量界では、計量教習所が32年間の国の組織から発展的に閉校し、独立行政法人産業技術総合研究所の計量研修センターとしてスタートしました。
 世相では、プロ野球から米大リーグのマリナーズに入団したイチローが、1年目で年間200本安打と首位打者となり、新人賞とMVPを獲得しました。
 事件として、米ニューヨークとワシントンで同時多発テロが発生し、歴史的大惨事となりました。また、国内で初めて狂牛病が発症して大混乱となりました。
 2002(平成14)年は、小野所長の最後の年で千葉県の人口が600万人を超えました。

ピロリ菌による胃病に煩わされる

 私はといえば、地方分権関連担当を終えた2000(平成12)年から2003(平成15)年までの4年間検定第二課で少しのんびりさせてもらいましたが、実はこの時期に2回ほど胃潰瘍を発症してしまい、同僚や皆様に迷惑をかけてしまいました。胃潰瘍といっても患部の切除ではなく出血性で胃カメラによる止血手術だけの治療でしたが、ストレスとか暴飲暴食など根本の要因はありますが、起因要因としてピロリ菌の存在が大きいようです。2回目の入院中にピロリ菌の駆除治療の結果、現在まで再発はありません。

2001年、ダイオキシンなどへの対応の特定計量証明事業制度が施行

 計量界では、2001(平成13)年にはダイオキシン類の極めて微量のものの計量証明をおこなうために、特定計量証明事業制度が施行されました。
 世相では、北朝鮮に拉致された被害者が24年ぶりに帰国するもその後、現在に至るも問題は山積みのままです。

斉藤博之氏の所長着任

 2003(平成15)年の所長は斉藤博之氏で、1年の勤務でした。斎藤所長は1967(昭和42)年から1980(昭和55)年の14年間と検査第二課長で2年間、次長で2年間を勤め所長で戻られました。
 この時期の職員数は、指定製造事業者制度の活用や計量職員の業務研修等の必置規制の廃止など業務の効率化、合理化の進むなか、1998(平成10)年頃から30人を切りこの年には25名になっていました。
 世相では、ショッキングな事故として米のスペースシャトル「コロンビア号」が地球へ帰還直前に空中分解という悲劇がありました。1986(昭和61)年のスペースシャトル「チャレンジャー号」の打ち上げ後の爆発事故が思い出されました。
 イラク戦争が開戦し激しい空爆があり、フセイン元大統領が拘束されました。
 読売巨人の松井秀樹が米大リーグのヤンキースに入団し、大活躍した年です。
 県民が喜んだのは市立船橋高校が全国高校サッカーと全国ユース大会でも優勝したことでした。

青木茂章氏の所長時代

 2004(平成16)年の所長は青木茂章氏で、1年間の勤務でした。青木所長は、若い頃、主務課保安課で計量検定所を担当されていた方で計量の理解者でした。
 私は、5年ぶりに企画啓発課に戻りました。振り返ってみると所長に計量の経験者でない方が付
かれた時に企画啓発課にいたような気がします。思いすごしでしょうか?
 千葉県の指定製造事業者については、前述しましたがフクダ電子(株)と京葉計器(株)の2社が指定製造事業者の指定を受け計4社となり、以降、現在まで指定製造事業者申請はあがっていません。
 この制度は、事後の立入検査を繰り返しおこないます。3年ごとに全20項目を実施する全般検査で2日間、通常年は、重点検査で1日それも2人1組の2班で対応し延べ4人ですから業務量は結構な負担となっています。その間、事業者の製造工程の変更や新しい型式承認器種を追加・変更した時の必要に応じた臨時検査もあります。計量人生の後半は、退職するまでのほとんどを指定製造事業者の立入検査で班長をやっていましたね。
 世相では、アテネオリンピックの年で日本勢の活躍があり、メダル46個でうち金が16個というメダルラッシュでした。この中には、体操男子団体で28年ぶりの金メダルや女子マラソンで野口みずきが金メダル、水泳で北島康介が金メダル2個、柴田亜衣が800mで金メダル、柔道で野村忠宏が60kg級で、谷亮子が48kg級でそれぞれ金メダルでした。

佐久間則夫氏所長時代、2005(平成17)年ころ

 2005(平成17)年の所長は佐久間則夫氏で、2年間の勤務でした。佐久間所長は、計量出身者ではなく、県産業支援技術研究所から着任されました。組織変更と職員の減員がありました。
 総務課は2000(平成12)年から課長が事務次長に昇格されて廃止されており庶務担当1名のみとなっていました。課は、業務のみで企画啓発課が3名、検定第1課と検定第2課が一つになり検定課となり6名、検査課が4名、指導課が4名、総勢22名になっていました。
 この年あたりから人事に変化を感じました。それは、異動の転入者が技術職員ではなく一般事務職員に変わったことです。
 このことは、業務課の配置から見た時に即戦力が期待できなくなったことと一般事務職員の場合、通常の異動期間が4年前後のため計量研修センターへ行くことを希望しないことがあり一般計量士の養成が閉ざされた感を受けたものです。
 転入者への業務研修は、所内のOJTによるか、研修センターを活用するにしても1カ月の短期計量教習への派遣に留まっています。

関東甲信越地区の計量行政会議のこと

 私は、2004(平成16)年から企画啓発課に配置されていましたので所長に同行し、会議にはよく出席していました。ここで関東甲信越地区の計量行政会議について触れてみたいと思います。
 全国の計量行政機関の組織として都道府県計量行政協議会があり、全国を東北北海道地区、関東甲信越地区、東海北陸地区、近畿地区、中国地区、四国地区、九州地区の7つに分けた中の関東甲信越計量行政協議会に所属しています。協議会は東京都、神奈川県、埼玉県、茨城県、栃木県、群馬県、長野県、山梨県、新潟県、千葉県の10都県で構成しています。東京都が都道府県計量行政協議会の全国世話人ですから地区世話人は、神奈川県が当協議会の創設から1999(平成11)年まで担当していましたが地方分権化にともない会役員の負担軽減の趣旨から神奈川県、埼玉県、千葉県の3県で世話人、副世話人、監事の3役を2年毎の持ち回り制としたわけです。また以前の地区計量行政協議会の年間の会議は総会1回、所長会議2回、実務担当者会議3回と活発な活動をしていましたが各都県とも職員の減少や予算の削減等で会議の見直しをせざるを得ない状況でした。実際は、1998(平成10)年から世話人埼玉県、副世話人千葉
県、監事神奈川県で輪番制がスタートしました。
 会議の開催数の変更については、2006(平成18)年の千葉県が地区世話人であったときに新潟県開催の所長会議の時だったと記憶しています。翌年から総会1回、担当者会議2回の現行の形になりました。

技術基準へのJIS引用の省令改正

 2005(平成17)年の計量界は、新計量法が施行後10年を経過していましたから2年後を見据えての計量制度の見直しが計量行政審議会に諮問されました。実際は、法律改正までには至りませんでした。
 特定計量器検定検査規則の省令改正があり省令の技術基準へのJISの引用をするという初年度になりました。この年は、抵抗体温計、ガラス製体温計、電気式アネロイド型血圧計、非自動はかり、タクシーメーター、水道メーター、温水メーターの7器種でした。
 私ごとですがこの年から計量士国家試験委員に先輩計量士金井一榮氏の推薦があり任命されました。この担当区分は、「計量器概論及び質量の計量」でしたが一番大変な試験問題案の作成は主に産業技術総合研究所の研究員や業界専門家があたり、計量検定所からの委員としては、東京都の小林雄志さんと二人で第3者的視点から参加していました。何とかトラブルもなく退職まで務めさせていただきました。
 世相では、スペースシャトルの打ち上げが再開され、日本人の野口聡一飛行士が重要な任務を完遂されました。JR宝塚線の列車脱線事故で多数の犠牲者を出す悲惨な出来事がありました。個人情報保護法の施行がありました。プロ野球では、千葉ロッテマリーンズが優勝し、千葉県で初の優勝球団となりました。

菊地忠義氏の所長時代の2007(平成19)年ころ

 2006(平成18)年は、検定所の組織変更があり、企画啓発課と指導課が企画指導課となり6名、検定課6名と検査課4名の3課体制になりました。職員数は20名となりました。
 2007(平成19)年の所長は、菊地忠義氏(故人)が1年間の勤務でした。菊地所長は、計量出身者でなく県産業支援技術研究所から着任されました。正確には、1994(平成6)年、1995(平成7)年の2カ年検査課長で勤務されておりましたから2回目の計量行政でした。

大先輩、斎藤勝夫氏の思い出

 2007(平成19)年は、千葉県の計量行政を積極的に構築し推進に尽力された大先輩、斎藤勝夫元所長が81歳の人生に幕を下ろしました。斎藤氏は1948(昭和23)年に後の計量検定所となる前組織の商工課に配置され当時の小林義雄係長に度量衡教習(現計量教習)へ度量衡係から派遣され第1期の教習生となり計量の第一歩を踏み出しました。その後は、計量界の諸先輩の皆さまが御存じと思いますが1963(昭和38)年に第2代目の計量検定所長になり、1966(昭和41)年までに千葉県の計量行政の方向性を築かれたと思っています。
 それは、現在の千葉県内の計量業界(計量団体)の組織化が図られました。計量器の製造・修理事業者の千葉県計量工業会、自重計の修理事業者の千葉県自重計部会、一般計量証明事業者の千葉県計量証明事業協会、流通関係の計量器使用事業者の千葉県計量管理大型店協議会、生産事業所の千葉県計量管理協議会、計量器の販売事業者で組織された千葉県計量協会がそれぞれの創立に関わったことでしょう。
 現在の千葉県計量協会は、2010(平成22)年から一般社団法人に登録して一本化が図られています。1970(昭和45)年から1978(昭和53)年まで2回目の所長として戻られその後、中小企業関係、東葛飾元支庁長を経て県を退職し、流山市元助役、千葉県計量協会元会長・計量士会元会長と正に生涯を公務員と計量に捧げた人生の方でした。
 年代的には、親子の開きがあり上司と部下の関係ですから仕事に関しては100%手本とさせてもらいました。また、大変面倒見がよかった方と思います。私ごとですが1970(昭和45)年のことでした療養中であった父の突然の死亡の知らせを受けた時に斎藤元所長が、すぐに飛行機の手配と公用車の使用を認め、羽田空港まで送ってくれる措置をとってくださったことが思い出されます。御冥福をお祈りいたします。

千葉県柏市が中核市になり計量法上の特定市の業務を移管

 この年は、千葉県柏市が2008(平成20)年度から地方自治法に基づく中核市に移行することが決まっていました。中核市になると計量法上の特定市の業務が移管されることから、柏市より山本常正氏という職員1名の派遣を受け入れることがありました。1年間でしたがはかりの定期検査と量目検査、計量に関する各種立入検査、一部の検定業務まで短期間で習得され翌年は教習センターも修了され現在、御活躍中と聞いております。
 世相は、日本郵政公社の民間としてスタートした年です。

米谷賢徳氏が2008(平成20)年の所長に、所長勤務は2年

 2008(平成20)年の所長は、米谷賢徳氏で2年間の勤務でした。米谷所長は、私とほぼ同時期の1970(昭和45)年に計量検定所に勤務されました。米谷所長の計量検定所勤務期間は、1970(昭和45)年から1998(平成10)年までの29年間と所長期間の2年間の31年で、9年間を本庁の保安課(主務課)で勤務されました。私は米谷所長と新計量法の施行時期や指定製造事業者制度の対応などを企画啓発課(1995〔平成7〕年新設)で一緒に取り組みました。

千葉県計量検定所体制は2課制度に

 この年(2008〔平成20〕年)の計量法関係ですが、法律改正は見送られ政省令の改正に留まるものでした。検定所組織の変更があり、庶務機能と企画指導課が総務企画課となり課長は事務次長の兼務となり6名、検定課6名と検査課4名の3課となり、18名の職員となりました。現在(2013〔平成25〕年)は、総務企画課と検定・検査課の2課制で所長以下16名体制となっています。
 2010(平成22)年3月に米谷所長と共に定年退職を迎えました。千葉県計量協会が悲願の一般社団法人に2012(平成22)年6月に登録を受けることができました。この功績は、米谷所長が着任の2年間を目標に尽力された結果といってよいでしょう。

役所退職後の第2の人生は皆さまに支えられてのもの

 定年後の第2の人生を考えたとき、スタートの計量教習所から計量行政の道に進み41年間を無事に務められたことは、家族を含め検定所の同僚、県庁関係、特定市関係、近都県の計量関係職員、産総研の法定計量関係、研修所関係の皆さまのおかげであり、感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
 現在は、首都圏で中堅スーパーマーケット46店舗を展開している(株)ピーコックストア(適正計量管理事業所、2013〔平成25〕年5月にイオンマーケット(株)に名称変更)に勤務し、適正な計量管理を実現するために上司ほか関係の皆さまに支えられて精一杯取り組んでおります。

適管事業所勤務計量士として研鑽を積む

 適正な計量の実施の確保にかかわる計量の実務に継続して携わることで、計量関係団体との繋がりも民間の立場から新しいお付き合いが生まれております。
 具体的には、千葉県計量士会へA会員として、東京計量士会へC会員で加入し、研修会、講演会、見学会等へ積極的に参加しております。
 計量啓発事業との関連では、東京都と東京都計量協会(計量士会)との共催事業である「出前計量教室」や「都民のひろば」(11月1日の計量記念日事業)、また適正計量管理者向け(生産関係および流通関係)の主任計量者養成講習会等のお手伝いをするなどしております。

適正計量実施体制確保へ計量研修センターの活用を

 現状の各計量行政機関においては、専門的な訓練(計量研修センター)の修了者が減少している状況にあります。それぞれの地方公共団体における計量行政組織が、OJT(自前の人材育成)によって職員の計量行政の知識と専門技術を修得させるという訓練は、経験者の退職等により厳しい状況になっていると思われます。
 計量法の実質上の目的である適正な計量の実施の確保をするための体制を維持するために、計量研修センターを大いに活用するのが良いのではないでしょうか。
 また計量行政側は元気な一般計量士(OB)を、ハカリの定期検査の実務ほかに引っ張りだすことを含めてさまざまに活用するようにすることが良いように思われます。

(おわり)

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