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計量計測データバンク「日本計量新報」特集記事寄稿・エッセー(2021年一覧)
  古い旅日誌を終えて

元日本計量振興協会専務理事 佐藤克哉

佐藤克哉 本紙に何度か紹介させてもらったマイウエブサイト「ツッカーさんの古い旅日誌」が完結した。14年もかかって書いた日誌で、訪れた国は40か国前後(時期によって国数が変る)、訪れた都市、町、場所は多分100を超えるが、書き終わってみるとあっけないものである。日誌の中盤までは、ビジネス旅が先行し、後からもう一度旅行すると云ったパターンが多かったが、終盤になると観光が主体になっている。

 本来は、旅日誌を書いているつもりだったが、おおよそ訪問順に並んでいる日記を見つめ直すと、年代記にもなっていることを発見した。

 50年近い旅の間に変わっていった自分自身が反映されていること、そして移り行く世界が背景になっていることが分る。欧米は数多く訪ねても変わったという印象を特に持たなかったが、中国を始めとするアジアの変化は凄まじいものがある。

 激流の流れに立ち会っていたと感じる。一方、中近東、アフリカ、南米に行かなかった理由も分かる。ビジネスチャンスもなく、その時期に治安の悪い国々(独裁国の治安はむしろ良いので旅はできる)には行く機会もなかったのだ。この旅日誌の限界である。

 掲載ウエブサイトはhttp://t1941f3.s262.xrea.com/xoops/html/

 だが、使ったウエブ構築ツールxoopsが古く、不安定のため絶えずメンテナンスが必要で、いつ読めなくなるか保証の限りではない。申し訳ないので、代わりにエピソードを一つ載せる。行ったけれども現地の写真が一枚もないので、番外編にした旅である。

「冬のシベリア―マイナス40度の町―ニジネヴァルトフスク」

 ロシアの西シベリアにあるニジネヴァルトフスク(日本から6,000km)という町は石油・液化ガス採掘の基地である。そこの石油公団から、プラントを売り込んだメーカーへクレームがあり、その問題解決の依頼を受け、年頭早々現地へ飛んだ。日本から直行便があるはずもなく、一旦モスクワまで西へ飛び、それから、東へ戻って、現地入りした。

■1980年1月6日(日)モスクワ

 持っていく手荷物が多いので、東京駅からタクシーで水天宮近くの東京シテイターミナル箱崎に行く。そこで、昔モスクワで一緒だった商社マンに偶然出会う。何年振りだろう。息子さんが海外へ出張するのを見送りに来たらしい。

 世代が交代しつつあることを痛感した。箱崎からはリムジンバスで成田空港へ向かった。モスクワ行のJL443に搭乗し11時に成田を離陸した。飛行時間は約10時間、飛んでも飛んでも窓の外の日差しは変わらない。飛行機の速さが地球の自転速度とあまり変わらないからである(動く方向は逆向きなので、差引の速さが小さくなる)。

 でも地球の動きの方が少し早いので、飛び立った時刻のままではなく、午後3時にモスクワのシェレメチボ空港に着いた。空港から市内への道はあまり変わっていなかった。新しいビルも増えていたが、全体としては10年前のままであった。あまり寒くはなく、マイナス7度とのこと。ホテル・インツーリストに入る。

 夕方5時ごろから、クレムリンと赤の広場を散歩した。耳が冷たかった。何の感慨も湧かなかった。

■1980年1月7日(月)ホテル・インツーリスト

 現地の気象条件が悪く、飛行機が飛ばないとのこと。現地への土産物を買いに、赤の広場の反対側にあるホテル・ロシアに行く。

 馬鹿でかい矩形の建物で、玄関が東西南北にあるが、中で繋がっていない。目的の場所に行ける入り口が判らない。とうとう4つの玄関を一回りした。1時間ほど掛ったのではないだろうか。巨大さが売りもののビルだが、不便この上もない。

 気温はマイナス10度位。帽子を被っていれば、何とか凌げる。それでも、どこかに寄ろうという気にならなかった。やはり、真冬では動き回る気にならない。(1968年に完成したホテル・ロシアの寿命はあまり長くなかった(35年位)。出来た時は世界最大のホテルで、4つの映画館、複数のレストラン、ナイトクラブ、コンサートホール、会議場等があるのだが、どこかちぐはぐな施設だった(フルシチョフが造らせたそうだ)。今は存在しない。)

■1980年1月8日(火)ニジネヴァルトフスク(西シベリア)

 この日、ニジネヴァルトフスクの気象条件は問題なく、飛行機は飛べるということになり、急にドモジェドヴォ空港から現地に向かった。

 真夜中1時半に離陸、2,300kmの距離を3時間10分かけて、飛ぶ。着いたら周りは真っ暗で、辺りの状況は全く分からない。

 マイクロバスに放り込まれる。多少は暖房が効いているようで、我慢できた。しばらく走った後で、ずんぐりした建物に案内される。窓はない。玄関には三重の頑丈なドアが付いている。一つ、一つ、力一杯押さないと開かない。この位にしないと寒気を遮蔽できないらしい。外の気温はマイナス40度。室内はプラス30度に温められている。その変化に頭がクラクラする。70度の温度差である。

 この建物は日本からの出張者の宿舎で、数人がゴロゴロしていた。2段ベットが並んでいる。装飾品は全くない。どう考えても強制収容所の雰囲気である。ここへ来たら簡単には帰れませんよと周りが脅す。とにかく寝る。

■1980年1月9日(水)ニジネヴァルトフスク(西シベリア)

 いよいよ持参した耐寒服に着替える。普通の下着の上にノルウエイ(helly Hansen)製のインナーを着て、通常の服装をして、上からNorth Faceの耐寒オーバーオールを被り、そのうえからダウンジャケットを羽織り、カナダ製ソレルのブーツを履くという、勇ましい恰好であった。勿論ニット帽と目出し帽、手袋とミトン等も装着し、マイナス40度の中、出発した。

 迎えの車の中は暖房が入っていて、どうということもなかったが、着いてからが大変だった。室内の気温はプラス25度位。防寒具やらオーバーオールなどを脱ぎ捨てるのに手間を取り、結構汗をかいた。昼食と帰りに同じ騒ぎをやらかした。インナーはオフィスでは脱げないので、暑いし、動作がもたつく。明日からはインナーは着ないことにした。

 現地の人は、考えられないほどの薄着である。ジーンズが流行りだそうで、ピタピタのパンツをはいている。これで外を歩く。とてもまねできない。ふと気がついて、周りを見回すと、年配者はおらず、若い人しかいない。何れにしても、年寄りが生存できる環境ではない。

■1980年1月13日(日)ニジネヴァルトフスク(西シベリア)

 完全防寒スタイルで表を歩いてみることにした。玄関の3枚のドアを開けるだけで、体力を消耗する。外に出たら、白と黒の二色しかない。というより白一色なのだが、建物の影が灰黒色に見えただけだ。天地の境界も分からない。雪が舞っている。太陽の方角は判らない。

 まずフェースマスクの鼻と口の部分が凍る。マイナス10度で鼻毛が凍る。マイナス20度で睫毛が凍る。一歩踏み出すのに、かなりのエネルギーが要る。周りを見まわすのも辛い。

 雪道を30分位歩いたところで、降参し、引き返した。うっかり、物に触ると手が離れなくなるので、写真を撮るどころの話ではない。ニジネヴァルトフスクはオビ川の沿岸にあるそうだが、河の気配など全くない。本当に有るのかなと思ってしまった。

 ここは低地湿地帯で、世界最大級の大平原だそうだ。石油、天然ガスが大量に埋蔵されていることで知られる。夏場は泥濘と虫で動きにくく、実は冬場の方が橇を使えるので、交通に便利だと聞いている。

 宿舎に戻る。薄赤い電灯がついているだけで、洞穴という感じ。テレビもなく、所在無さげにベッドに転がっている人が何人か居る。古い日本の週刊誌の回し読みをしている。玉ねぎをコップに入れて、水栽培をしている。生えてくる芽が唯一食べられる青物とのこと。

■1980年1月17日(木)ホテル・ウラル、モスクワ

 仕事は終わった。タイミングよく、直ぐにニジネヴァルトフスクからモスクワ行の便を手配できた。宿舎の日本人が羨ましそうな顔で見つめていたが、さっさと荷物をまとめ、空港へ送ってもらい、モスクワ行に飛び乘った。モスクワに着いたら、聞いたこともないホテル・ウラルに行かされた。昔に比べると、ずいぶん待遇が落ちたが、我慢するしかない。

■1980年1月18日(金)

 時間潰しに古巣のホテル・ウクライナに行く。何か薄汚れた雪混じりの街並みの中で、ただただ古くなっていただけで、がっかりした。

 帰りに担当商社の事務所に寄る。1階の受付で、タクシーの運ちゃんに伝言を頼まれた。事務所に行き、車が下で待っていると伝えると、ロシア語を話せるのかと聞かれた。そこで、運転手との会話を思い出し、まだ少しならロシア語を話せたのだと苦笑した。

 夕方シェレメチボ空港へ行く。建前上、現地通貨ルーブルは持ち出し禁止なので、清算して通関を通り抜け、待合室で出発を待つ。キオスクで飲み物を注文しようとしたらルーブルで払えときた。相変わらずソ連風であった。

 やっとJALに乗ってからコーラにあり付いた。翌19日に成田に着き、箱崎経由で、京都に戻った。

 何もソ連は変わっていなかった。ただ貧相になっただけ。おまけに外貨を使ってくれる外国人を有難がる空気も消えていた。今考えれば、ソ連の末期的状況だったのかもしれない。もう一度ロシアを訪ねようという気持ちが完全に霧散してしまった。

 冬のシベリアの光景は頭に浸み込んだものの、写真を一枚も撮れず、資料も集められなかったので、旅日誌には無理と思ったが、強烈な体験を残したく、番外編に組み込むことにした。しかし、その時の強烈な印象を描写できそうもないのが悔しい。



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