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計量計測データバンク「日本計量新報」特集記事寄稿・エッセー(2015年一覧)>【廣田茂】三重県の歴史を楽しもう

日本計量新報 2015年8月9日 (3068号)4面掲載、8月23日 (3069号)4面、9月6日 (3071号)4面掲載、9月13日 (3072号)4面掲載、9月27日 (3074号)3面、10月4日 (3075号)5面掲載、10月11日 (3076号)4面掲載

三重県の歴史を楽しもう

(公社)富山県計量協会事務局長 廣田茂

廣田茂三重県で開催された中部7県計量協議会に参加してきました。
 所用があり、東京から駆けつけたのですが遅くなり、解体ショーのマグロを食い損ねてしまいました。協議会自体の詳細は日本計量新報社様にお任せしまして、この地で起こった歴史について話してみたいと思います。
 三重県といえば、最近ではサミットの開催場所としても有名になりましたが、徳川家康の伊賀越えの地であり、海賊大名とも言われた九鬼嘉隆の居城である鳥羽城があった所です。
 翌日、鳥羽城址へ行ってみましたが、典型的な山城様の石垣が組まれており、海側斜面の一部に段々畑状の幅の狭い石垣群が密集している所があり、防御にはより便利な構造と観られました。全体にコンパクトで機能的に作られていましたが、囲まれての籠城戦にはキャパシティーが無いので脆弱な面が否めないと感じられました。この城を作った九鬼一族に纏わる話題など題材は多くあるのですが、今回は、徳川家康最大のピンチといわれる伊賀越えについて話をしようと思います。
 伊賀越えについては、発生原因となる本能寺の変について語る必要があり、それについて興味深いバックヤードを展開している明智憲三郎氏の見解を基に私のオリジナルを交えてお話しすることにします。
 すでにご存知の方も居られると思いますが、明智憲三郎氏は、「本能寺の変431年目の真実」という本を書いておられ、多くの人に読まれています。解釈の違いで史実は変わりませんが、その経緯には天と地程の違いがあります。
 私の話を機会に、読者自身も自分なりの大河ドラマを構築して、楽しんで頂ければ幸いです。
■本能寺の変
 伊賀越えを語るには、本能寺の変がどうして起こったのかを分析する必要がありますので、主人公である明智光秀と彼を取り巻く環境も含めて分析していくこととします。
 明智光秀は、明智荘出身の土岐氏を先祖に持つといわれており、一族は足利義満の圧力により次第に弱体化し、最後は、斎藤道三に追い出されてしまいます。
 明智光秀は、足利義満の子孫である足利義昭に仕えつつ、織田信長にも仕えますが、その後、足利義昭を見限り、織田信長に傾倒していきます。足利義昭と織田信長が交渉をしていた時分、細川藤孝が足利義昭の使者として関係していましたが、この時点から細川藤孝と親密な関係になったと思われ、後に細川藤孝の嫡男忠興と明智光秀の娘(ガラシャ)が結婚するのです。
 明智光秀はこの頃の武将では随一と言われるほど文学に通じ、戦においても滋賀付近の豪族を懐柔していくなど交渉能力に長け、比叡山焼き討ちでも戦術での才覚を発揮し、その後居城となる坂本城を築城します。その後、越前一向一揆、雑賀攻め、丹波攻め等にもその交渉術と詳細に練った戦法で次々と功績を挙げていきます。
 彼は聡明な学者派で思慮深く、土岐氏復興の長として一族を守って生きたいと願う、もの静かなお年寄りというイメージが浮かんできます(年齢には諸説ありますが、私はこの頃秀吉は45歳程度で、彼は65歳を上回っていたと判断しています)。
 有能だからこそ、畿内中央支配を身内で固める織田信長から、西方への国替えを示唆されていたと思われ、悶々とした日々を送らされていたと思います。
 ここで、明智憲三郎氏の解釈による本能寺の変の内幕は、織田信長が明智光秀に徳川家康殺害を命じたが、逆に討たれたとされています。
 これを検証するため、私のオリジナルを含めて彼らの関係はどうだったのかをいくつかの事象から観てみます。
 織田信長は甲州征伐の後、徳川家康へ駿河の領地を与え、三河に到るまでの領地を10日程度かけて観て回り、帰郷しています。彼の性格からして、単なる観光とは思えず、徳川家康領内の軍備状態を観察したのだと感じます。
 甲州征伐の戦いの後も織田信長は現地に残り、武田の残党狩り等甲斐中心部に本拠を持つ武田勢を根絶やしにしようとしますが、徳川家康はそれに背き、有能な旧武田の家臣を匿って家来にしようと動きます。これが織田信長の戦後処理との大きな違いとなります。
 徳川家康は今川義元が桶狭間で敗れた後、旧今川家の有能な家臣を多く受け入れ、その所領をそのまま彼等に安堵することで、組織の強化を図ってきた柔軟な発想の持ち主です。しかし、上手くいかなかった場合もあり、それは築山殿と嫡子松平信康の悲惨な事件に発展したのです。
 築山殿(徳川家康の正室:今川家の有力家臣である関口親永の娘で後に今川義元の養子となります)について、一般的に言われているのは、以下のような内容です。
 旧今川家の誉れある娘が徳川家に嫁ぎましたが、鼻が高く、徳川(松平家)の家臣達と馴染めず城に入れなかったため、徳川家康の居城である岡崎城の近くの築山に御殿を建てさせ、そこに住み、嫡男の松平信康を生みます。
 その後、織田信長との同盟関係により、徳川家康の嫡男松平信康は、織田信長の長女徳姫と結婚しますが、築山殿はその時も築山から離れられず、岡崎城に移ったのはそれから3年後のことです。同時に徳川家康は浜松城へ移っており、別居関係が続きます。
 その後、岡崎城の徳姫から織田信長へ、松平信康・築山殿に武田への内通があったとされる12ヶ条の訴状が出され、織田信長から徳川家康は2人の処刑を命ぜられ、その指示に従い、処刑されたとされています。
 元々、三河の松平家は18松平といわれたほど分家が多く、内部で鍔迫り合いをしてきた経緯があります。徳川家康は宗家の地位をかろうじて確保していた父から、今川家へ松平家の人質として差し出されていたので、宗家の地位が保証されていたともいえます。
 徳川家康は、朝廷から官位を得やすいよう新田源氏を祖先とする松平家よりも元藤原氏という家系を欲しがり、徳川という姓を探し出し桶狭間の戦い後、徳川と改姓し勅許を受けています。
 当然、徳川と名乗れるのは自分のみの家系で、他の分家は松平のままですが、松平家の宗家の地位も手放したくないと考えた筈です。そこで息子の松平信康に松平家当主の座と本城の岡崎城を継がせ、自身は徳川初代当主として浜松城に移ったのだと思います。
 しかしながらこの2家主体制は上手くいかず、岡崎城の松平信康は築山殿の庇護のもと、松平家の古くから仕えている家臣達にそそのかされ、徳川家康の考えとは逆の方向へ向かい始めるのです。松平信康と徳姫との間には姫しか授からなかったことより、築山殿は松平家と信康安泰のため、早急な跡継ぎの誕生を望み、側女をあてがいます。このことを単純に徳姫は捉え、織田信長への12ヶ条の訴状となったものと考えられます。
 織田信長からの口添えがあったかどうかは知りませんが、徳川家康は家臣の野中重政に築山殿の殺害を命令し殺害しますが、野中重政はその後故郷に戻り、隠居してしまいます。
 一方、松平信康は二俣城で自刃させられますが、その際に徳川家康は古くからの家臣である服部正成(通称:服部半蔵)に介錯を命じます。
 しかし、服部半蔵(伊賀越えでは重要な働きをします)は三代相恩の主に刃は向けられないと拒否をするのです。
 このように浜松城で徳川家康に仕える家臣達は、お家のためとはいえ、両人の殺害に蟠りを持っていたと思われ、築山殿に対して悪感情は持っていなかったと推測できます。
 結論として、家臣を巻き込むお家騒動に発展する芽を早めに摘もうと徳川家康が画策した内部事情により発生した不幸な出来事と観る方が自然と考えます。徳川家康の妻子をも、お家のために亡き者とする判断には、恐ろしいものがあります。
 この騒動の詳細は織田信長も間者を通じて知っていたと思われるので、この機会に彼の領地を見聞しておこうと思ったに違いなく、その後の本能寺の変へと繋がっていくのです。
■明智光秀と織田信長
 次に本能寺の変の前後を明智光秀と織田信長を中心に時系列に観ていくことにします。
 天正(てんしょう)10(1582)年5月15日に駿河拝領のお礼に徳川家康は、酒井忠次、石川数正、本多忠勝、井伊直正、榊原康政、服部正成(服部半蔵)等の手練重臣達34名と、穴山梅雪(甲州征伐時に家康の誘いに乗って武田を裏切り、織田側についた旧武田の有力武将で、領地を安堵されたお礼のため同行していました)を伴って安土城を訪問し、5月18日まで織田信長直々の饗応を受けます。当初は明智光秀が接待責任者となりますが、途中で羽柴秀吉からの援軍要請のため、5月17日に明智光秀は準備のため、坂本城へと向かいます。
 5月19日には、安土城の境内にあるハ見寺で歓迎の宴を開き、翌5月20日には、安土の地にある高雲寺で歓待の宴を開催します。
 5月21日には、徳川家康一行は京都経由で堺を見学するため出立しますが、織田信長は、長男の織田信忠を頭に、町に詳しい長谷川秀一と西尾吉次を道案内役として同行させます。
 一方、明智光秀は5月26日に坂本城から丹波亀山城へ移り、西方援軍のための準備を始めます。
 そして、5月27日に戦勝祈願のため、愛宕山にある愛宕神社へ参った後宿泊し、5月28日には奉納連歌百韻を興行します。俗に言う愛宕百韻興行です。
 その時、彼が詠んだ句で、「時は今 天が下知る 五月哉」がありますが、一般的な解釈として、明智光秀が土岐氏出身のため、土岐氏である光秀が天下を取る5月とされていますが、私流に訳するなら、織田信長(天)が我らの思いを知る(下知る)のはただ今である5月とし、この時に織田信長を討つと意思表明をしたものと感じます。意思表明は5月なので、本能寺の変の6月2日を指すものではありません。尚、当時は雨も降っていたようなので、それに掛けたものと思います。
 また、盟友である細川藤孝は、里村紹巴が主催する連歌会の一員であり、しかも愛宕百韻興行に参加する予定でしたが、急遽欠席していることからも、この時には既に明智光秀と距離を置くことにしていたことが伺えます。
 また、愛宕百韻興行に参加した里村紹巴は、明智光秀の発句に対して「花落つる池の流れをせきとめて」と詠んでおり、訳しようによっては、如何にも取れるように思え、彼も薄々知っていたようにも思えます。
 明智光秀は、愛宕百韻興行後に直ちに亀山城へ戻り、出立の準備に取り掛かると共に明智秀満、斉藤利三等、主な重臣達に織田信長から指示された徳川家康殺害計画、そして自分がそこから導き出した織田信長殺害を、今現在実行しようとしている旨を伝え、従うように翌5月29日に掛けて説得したのだと思います。
 まさにその時、織田信長が本能寺へ到着しますが、徳川家康と同行していた織田信忠が迎えのために京へ戻り、本能寺のすぐ近くの妙覚寺に宿泊しますが、このことを明智光秀は知りませんでした。
■明智光秀の出発
 翌6月1日(京暦では5月は29日まで)夜8時頃には亀山城を明智光秀の軍勢が出発します。
 この日、織田信長は本能寺で京の公家達や豪商達と接見しており、徳川家康一行は堺の津田宗及宅でおこなわれた茶会に出席しています。
 その後、徳川家康一行は本能寺付近の茶屋四郎次郎清延の宿舎へ向かうのです。
 徳川家康の一行は、天正10年6月2日、本能寺の変が起きたその時には京に向け街道を進んでいました。これは織田信長が天正10年6月4日に、四国征伐と中国増援軍の両方の様子を観るため、京を出立して淡路へ行くこととなっており、その前に一緒に公家達にあいさつするためと聞かされていたものと想像します。
 まさにその時が徳川家康殺害実行の日だったと思われます。明智光秀は織田信長が指示したよりも1日早く京に到着したのです。
 天正10年6月2日午前4時頃に明智光秀の軍勢は本能寺を取り囲みます。
 天正10年は西暦では1582年に当たりますが、この年は西洋で使われていた古代からのユリウス暦(1年は365日ですが、4年に1回を閏年とし、2月に1日追加して366日として、平均の1年を365.25日としていました)から、グレゴリオ暦(400年に97回を閏年とし、2月に1日追加して366日として、平均の1年を365.2425日としていました:実際の太陽年は365.24219日なのでかなり正確で現在まで使われています)に替えた年となっており、積もり積もってずれていた11日を進めて調整した年なのです。暦問題を考えていた織田信長との関連を考えますと、面白いですね。
 織田信長は小姓の森蘭丸に攻撃してくるのは誰かと問い、森蘭丸は明智光秀の軍勢と答えます。織田信長が「是非に及ばず」と、呟きます。
 頻繁に日本に居たイスパニア貿易商のアビラ・ヒロンの『日本王国記』には、織田信長が本能寺で残した最後の言葉が書かれています。
 「是非に及ばず、余は余自ら死を招いたな」と、一般に言われているのは「是非に及ばず」だけですが、後が付いています。この言葉は織田信長が徳川家康殺害の計画を立てたが、逆に実行役の明智光秀に討たれることを指しているのではないでしょうか。ちなみにこの最後の言葉を近くで聞いた者は誰かを探ってみることにします。
 戦いの最中であり、警護の者が側近に付く筈なのですが、側近はすべて討ち死にしています。しかし、1人だけ生き残りが居ました。
 イエズス会のヴァリニャーノが引き連れていた身長180cm以上の若い黒人の青年ですが、織田信長が大いに気に入り、弥助と名付けて側近に召し抱えています。
 本能寺の変では、この弥助が大活躍します。
 織田信長に最後まで寄り添って戦い、本能寺が火に包まれた後は、長男の織田信忠を助けるため、彼が宿泊していた近隣の妙覚寺へと走り、合流して二条城へ移り最後まで戦います。
 明智光秀の軍勢に生け捕りにされますが、黒人なので人間として見られず斬首されませんでしたが、ポルトガル併合後の強大なイスパニアがバックに控えるイエズス会の所有物と観て、イエズス会へ引き渡されたのです。そのため、このイスパニアの貿易商が後に、彼よりことの次第を聞き書き記したと観る方が理にかなっていると思います。
■本能寺の変の後
 本能寺に泊まっていた織田信長の家来達は100人足らずで次々と討たれ、織田信長も手傷を負い、燃える本能寺のなかに残されます。
 織田信忠は本能寺の近くの妙覚寺に宿泊していたため、すぐに事変に気がつき、京から逐電するか交戦するかの選択を迫られます。彼は明智光秀の用意周到な戦術を知り尽くしていましたので、逃げ延びることはできないと判断し、防御に優れた二条城へと移り交戦する道を選びます。
 皮肉なことに明智光秀は、織田信忠は徳川家康と共に堺にいると思っており、京に戻ったことを知らなかったので、京をすべて包囲はしておらず、最初は本能寺だけを包囲していたのです。
 明智光秀の軍勢はその後、織田信忠が妙覚寺に居ることを知り、踏み込みますが、その時には織田信忠は二条城へと移っており、そこで最後の攻防戦が起こります。二条城では千人程度の将兵が明智光秀の軍勢と戦いますが、多勢に無勢で、殲滅されてしまいます。
 午前8時頃には火災も収まり、死体探しが始まりますが、織田信長、織田信忠ともに、彼らの首級はいくら探しても見つかりませんでした。
 これはかつて、織田信長が朝倉義景、浅井長政、浅井久政の頭蓋骨を薄濃(漆を塗った後、金泥で彩色)して晒し首にしたことがあり、自らも晒し首にならぬよう図ったものと推察できます。
 そのため羽柴秀吉は、殿様は生きておられると、各地の武将に手紙を記し手勢を増やす要因となりました。
 明智光秀が想像もしなかった羽柴秀吉の中国大返し、本能寺の変が発生した時、羽柴秀吉は水攻め中の高松城、その後ろに控える毛利の大軍と睨み合って膠着状態にあったと、明智光秀は理解していたのでした。
 しかし、本能寺の変の翌日、天正10年6月3日夜に高松城近くで、羽柴秀吉が怪しい者を捕まえたところ、明智光秀から毛利への使者であり、その書状からの内容を知り、毛利家との和睦を6月4日に済ませ、6月6日午後に高松城を撤収し、台風も到来しているなかを6月7日夜には姫路城に到着したとされていますが、100km以上もある大軍の移動と考えると非常に疑問に思います。さらに姫路城で金子(きんす)を将兵に与え6月9日に姫路出立、6月10日には兵庫に到着します。
 その途中で、明智光秀に呼応した菅流水軍の菅達長が淡路の洲本城を攻略して占領しますが、羽柴秀吉は土豪の広田蔵之丞と共にこの洲本城を攻撃して陥落させています。そして、6月11日には尼崎に到着し、織田信孝や周辺諸国の武将に呼びかけ2万以上の軍勢を整え、6月13日に、思うように将兵を集めることができなかった明智光秀(1万数千程度と言われています)と山崎で決戦をおこなうのです。織田信孝は丹波長秀等とともに、6月2日に四国征伐に向かう予定でしたが、1万4千ともいわれていた軍勢が、本能寺の変後、半数は逃亡してしまいました。
 大軍勢の羽柴秀吉が尼崎まで到着する時間は、この通りとすると現在の機動部隊においても実行不可能と観ます。間違いなく事前準備をしたうえでおこなったものとしか思われません。
 羽柴秀吉は、高松城攻めで、羽柴秀吉手勢の2万と毛利から寝返った宇喜多秀家の軍勢1万の、合わせて3万の軍勢で、毛利軍4万と高松城内の清水宗治以下数千の軍勢と睨み合っていました。
 最初に、織田信長の死をどうして知ったかということですが、偶然、明智光秀から毛利への使者を捕まえわかったとするのは、創作としか思えません。
 あらかじめ羽柴秀吉に知らせる約束をした者がいるはずなので、その可能性を探ることにします。
■細川家と明智家
 本能寺の変の後、羽柴秀吉から細川藤孝、忠興親子に対して丹後一国が与えられ、禄も加増されています。また、細川藤孝の筆頭家臣であった松井康之に加増分の1/3を与えるよう指示され、その後、松井康之は細川藤孝から城を作ることを許されて築城、城主となっています。これほど、何もしなかった彼らに羽柴秀吉が尽くす必要はあったのか疑問に思います。
 特筆すべきは細川藤孝の家臣である松井康之への禄も与えていることで、おそらく彼を通じて細川藤孝を動かしていたことが伺えます。
 元々、細川家と明智家は親密な関係にあり、息子・娘の婚姻関係も合わさり、互いに文人でもあったので非常に密接な関係にありました。
 結局、細川藤孝、忠興親子は髷を落とし、織田信長の喪に服し、明智光秀三女の珠(忠興の正室:後の細川ガラシャ)を幽閉し、かたくなに中立の立場を守ります。
 しかし、織田信長、信忠父子の首が見つからなかったにも関わらず、主君の喪に服すのは理解に苦しむ行為であり、むしろこの行為は、明智光秀と密約が確立されていたが、羽柴秀吉によって、やむを得ぬ事情が発生して反故にしたためと観る方が理解できます。
 これらより、細川藤孝の重臣松井康之を通じて、ライバルである明智光秀の動向を逐次、羽柴秀吉に連絡させていたものと考えられ、その中で本能寺の変が伝えられたと推測します。
 蛇足ですが、この細川家について、興味深い話があります。
 皆様ご存知の宮本武蔵は、細川忠興の息子の細川忠利に57歳にして最初で最後の仕官を果たします。その頃の細川家は、肥後熊本に国替えをさせられています。
 宮本武蔵は巌流島での佐々木小次郎(面白いですね、細川忠興の剣術指南役でした)との戦い後、徳川家康配下の水野勝成の騎馬武者として大阪冬の陣、大阪夏の陣に参加しますが、臨時雇いだったようです。そのときの縁で、水野家藩士中川志摩之助の3男、造酒之助(みきのすけ)(三木之助とも)を養子に貰います。この造酒之助をネタに衆道(男色)コーディネーターの道を歩むのです。この頃は戦場には女性(豊臣秀吉は例外でした)を連れて行けませんし、殿様もあちこちに御落胤を作る訳にもいかないので、原則、元服前の衆道は当たり前の世のなかだったのです。その後、造酒之助は姫路の本多忠刻の小姓頭となり700石取となりますが、9年後に本多忠刻が病死すると彼に添い殉死します。造酒之助の死の2年前に宮本武蔵は兄である田原久光の次男の伊織を2番目の養子にしています。伊織は明石城主小笠原忠真に出仕しますが、5年後には家老となり、小倉への国替え時には、2500石取、そして島原の乱後は4000石取にもなります。この島原の乱では宮本武蔵は軍監として従軍しますが、百姓の投げた石が足に当たり重症を負います。彼の養子は2人とも相当綺麗だったようで出世しますが、宮本武蔵は直接の仕官でなく客分という地位だったようで、その後奮起して細川家にたどり着いたのです。
■中国大返しの事前準備
 次に、羽柴秀吉は中国大返しの事前準備をどのタイミングで始めたのかを観てみましょう。
 織田信長は甲州征伐の後、臣下ではない徳川家康との連合関係の必要性を深く考えていたに違いありません。
 織田信長とは違い、徳川家康は今川氏・武田氏の武将を領地安堵した上で、多数臣下にしており、お家のためには妻子も厭わない性格も考え合わせると、近い将来立ちはだかる存在になることを織田信長は充分承知していたと思われます。彼のスタンスは自分の邪魔になるものは消し去ることなのです。そこで彼は悪魔の計画を立てます。
 思慮深く学者派で口が堅いと見ている明智光秀に織田信長が計画を伝えます。そして5月14日に徳川家康饗応の準備をさせ始めますが、フロイスの日本史では、明智光秀が口応えしたので、織田信長が足蹴りにしたのを見たと記述しています。
 諸説では、明智光秀が織田信孝の四国攻めに反対したとか、さまざまな憶測が書かれていますが、再度反対意見を述べても織田信長は意に介さないことを熟知していたと思うので、それだけでは足蹴りにされるような反発行為をする訳がありません。
 しかし、織田信長が徳川家康を殺める計画を話し、そのスケジュールに沿って行動(明智光秀が徳川家康を討つ)するよう命じた時に、明智光秀の脳裏を四国の長宗我部元親の件がよぎったのではないでしょうか。
 織田信長は最初、長宗我部元親に四国は切り取り次第と言って、四国統一を容認していたものが、三男の神部信孝(伊勢の豪族神部氏へむりやり養子に出して神部家を乗っ取った)を四国の統治者にさせるため、今度は畿内で織田信長に敗れ衰退していた三好氏(元々は阿波出身)の養子にさせて四国征伐で長宗我部元親を討つことを独断決定しますが、その間、明智光秀に説得交渉をさせています。
 長宗我部元親に続いて、今接待している最中の徳川家康もそうなのかと、思わず明智光秀が反対したからではないでしょうか。
 5月15日に徳川家康が側近の臣下たち30余名を引き連れ、駿河国拝領のお礼に安土城へ来訪し、5月16日宴会中に羽柴秀吉から中国方面への出動要請が来たとされていますが、織田信長直々の大事な催しの最中に、気配りの秀吉が水を差すことはないと思うので、それ以前から出陣の要請を受けていたと捉えますが、その日のうちに織田信長は明智光秀に中国出陣の用意をするよう命令し、翌日5月17日に明智光秀は居城の坂本城へ向かいます。
 明智光秀はこの城に9日間留まり準備をおこなったとされますが、その間にことがあまりに重大なので、盟友の細川藤孝の元へ相談しに行ったのではないかと思います。
 羽柴秀吉から、多分恐喝じみた説得工作により、既に細川藤孝は通報役となっていたのに明智光秀は気が付かなかったのでしょう。この時点で、羽柴秀吉は徳川家康の殺害が計画されていること
を知り得たと同時に、織田信長も射止められると判断したことが推測できます。
 しかし、羽柴秀吉は織田信長にはこの件を伝えず、どうしてよいかわからなかった細川藤孝へは、明智光秀には同調しないよう念押しをしたものと考えます。多分、羽柴秀吉の軍師である黒田官兵衛はこの時点で「祝着至極に存じます」と囁いたのでしょう。
 それは、明智光秀に便宜を図るのではなく、明智光秀が動くときは徳川家康へではなく、織田信長に向かうはずで、徳川家康はついでに討たれるか落ち武者狩りに会い、落命する可能性が高く、混乱に陥った畿内方面へ急げば勝算ありと読んだからです。
 織田信長を直接手にかけるのは明智光秀ですが、それを阻止することは羽柴秀吉自身に不利に働くと判断した理由は、織田信長の立ち位置の恐ろしさにあったと思います。
 ここで、織田信長についてその人物像を探ってみます。織田信長は、京都中心に自分の子供達を配置し、有望でない者は容赦なく追放し、有望な実力ある者は遠くへ国替えさせる政策をおこなっています。
 さらに、日本統一の後は唐入りを見据えており、その際には尖兵として唐へ追いやられることを織田信長の臣下達は充分に理解していました。
 織田信長の安土城は豪華絢爛であるばかりでなく、城内には堂塔伽藍を備えた総(そう、実際の字は異なる注意!)見寺があり、その境内を通って、お城に入るようになっていました。また、住職は織田家一派であり、どうも織田家と織田信長自身を祀った節が伺えます。
 また、天正8年(1580年)ポルトガルを併合したイスパニアは、世界制覇の一環として明を攻めるため、イエズス会を通じて、織田信長に明への出兵を要請していたものと見られますが、織田信長はこれを拒絶していたようです。むしろイスパニアの明征服後の日本侵攻を危惧して、積極的防衛のため、朝鮮半島への出兵を考えていたようで、これは後に秀吉に引き継がれます。
 ここで当時のミリタリーバランスについて理解された方がよいと思いますので、説明します。
 火縄銃の生産地では近江の国友や日野、紀州の根来、和泉の堺等が有名ですが、日本各地で火縄銃の生産がおこなわれ、数百の鉄砲鍛治、数千の銃職人が当時働いていたようです(口径等の規格の統一はなかったので、個々に弾を用意する必要がありました)。
 戦国時代末期には50万丁以上の銃を保有しており、ぶっちぎりで世界一の鉄砲保有国でした(全ヨーロッパを合わせたぐらいの銃の量に匹敵していました)。
 当時の銃の性能は、銃身内部にライフリングが刻まれておらず、散弾銃のような滑空銃でした。有効射程距離は50m程度でしたが、命中精度は30mで100%、50mで80%程度で、口径は9〜20mmの鉛球が主流だったことを考えますと、命中した場合2mm程度の鉄板や30cm程度の木材は貫通し、人体へは致命的な損傷を与えますので、槍主流の時代では充分な性能だったと思います。
 しかも、100年に渡る戦乱が続いたため、他国にはない、高い戦闘技術を持つ兵隊を数多く抱えていました。
 そのため、大航海時代に入り、植民地化を進めるヨーロッパ諸国から独立を維持していたのはアジアでは、明国と日本だけだったのです。明国には多くの兵力、日本には高性能の大量の鉄砲と練度が高い兵力、おまけに国内統一が目前だったので、迂闊に手出しができなかったのです。
 このようなこともあり、イエズス会からは織田信長は自分を神と名乗り、民に拝ませていると、手のひらを返したような評価となっていきますが、それは織田信長の意としたところだったのでしょう。
 次に朝廷と織田信長との関係を官位の授受から観ていきましょう。
 織田信長は、天正3(1575)年11月に従三位権大納言兼右近衛大将の官位を受け、天正4(1576)年12月に正三位内大臣兼右近衛大将、天正5(1577)年11月に従二位右大臣兼右近衛大将、天正6(1578)年1月に正二位右大臣兼右近衛大将を受けますが、天正6年4月にこの官位を辞します。
 天正9(1581)年2月と3月に催された朝廷での馬揃えは、朝廷からお礼として同年3月に左大臣推任をされますが、辞退していることから、朝廷に対するものというよりは、畿内制覇を天下に知らしめるためであったと思われます。
 そして極めつけは、天正10(1582)年5月6日に朝廷より三職推任をされますが、これを保留します。
 また、朝廷の特権ともいうべき暦の問題にも大きく口を挟んできており、6月1日(京暦:5月は29日までで、翌日は6月1日です)は日食があったためか、本能寺で公家達とその問題を蒸し返していたようです。
 要は自分の支配地域で暦が違うのは都合が悪く、日本統一という観点から見ると朝廷自体も彼には不要と映っていたため、三職推任の要請には興味がなかったのかもしれません。
 天正4年から織田信長は、安土城の建築を始めますが、「天下布武」を目的とするものであり、天正6年には完成まであと1年を残すまでとなり、全国制覇も間近となっていました。
 安土城の「天主」は織田信長が居住するようになっており、これまでの天守とは全く概念が違っています。さらに普通は本丸の平地には殿様の居住する御殿がありますが、そこには天皇が泊まられる御殿(清涼殿)が建てられたようです。
 全国統一後を考える時期に来ており、その暁には自分が統治者となるので、ヘッドは1つであると強く思っていたと考えます。そのため、天正6年4月から、朝廷からの官位の授受を撥ね付けていることが伺えます。
 話を戻しますが、羽柴秀吉は細川藤孝からの情報で早い段階で準備をしたと考えられます。街道沿いの拠点には、交代用の馬をかき集め、飯の炊き出しから着替えの用意まで準備させていたことでしょう。さらに、毛利軍の軍僧の安国寺恵瓊を抱きこみ、毛利には内緒で高松城主清水宗治の切腹を条件付けさせる工作を進めます。
 そして、6月3日に織田信長死亡の連絡を受け、早々に清水宗治を切腹させ、蟠りのなくなった毛利家と6月4日に和睦し、その直後から将兵を引き上げたと考えられます。
 一般にいわれている6月6日よりは2日分多くなっているので、200kmを越える大移動は完全には無理かもしれませんが、一部は可能と観ます。その際には、毛利軍に後方から攻められては困るので、毛利軍の引き上げを見届けさせるため、宇喜多軍は後詰めとして高松城に置き、中国大返しは秀吉配下の2万について実行されたに違いありません。
 しかし、短期間での、できる限りの準備であったため、替え馬にも制限があり、馬に乗れない者も多くいたと思われますが、実際の移動期間が一般にいわれているよりは2日間増えたことを考えれば、尼崎に到着できた者は少なくとも半数程度はいたと考えられます。
 そのため、織田信孝等の残存兵7000と近辺の将兵収集が2日程度で7000程度と考えると、兵力は全部で2万数千人程度だったと推測され、一般に4万とも5万とも言われる兵力とは大きな差があると感じます。
■徳川家康の伊賀越えからみる明智光秀討伐の経緯
 最後に徳川家康の伊賀越えから明智光秀討伐の挙兵に至る経緯を観てみましょう。
 一般には徳川家康が懇意にしていた茶屋四郎次郎清延が、本能寺の変を徳川家康に伝えるため、堺方面に向かって急ぎ、上京途中の徳川家康先遣隊に出会い、徳川家康に事の次第を話して伊賀越えの手引きをしたとされていますが、道は1つでもないので、途中で出会うチャンスがあるのかが疑問です。むしろ安土城に来る前に、心配性の徳川家康は何かことが発生したときに備え、周到に準備をしていたに違いありません。そのため、畿内伊賀衆・甲賀衆に顔が利く服部半蔵を随行させていたのです。
 茶屋四郎次郎清延は、徳川家康とともに何度も従軍した経験のある隠密で、京の情報や伊賀国内の伊賀一族の連絡係を務め、徳川家康の臣下として三河にいる上忍の服部半蔵とも連絡を密にしていました。
 あらかじめ何かことがあった場合の兵員の準備や手筈は当然決めていたと思われます。
 ここで、伊賀越えでの重要な役割を果たす伊賀衆について説明をしておきます。
 服部半蔵は、上忍という忍者の位の一番上位に位置する武将ですが、畿内にはおらず徳川家康の父の時代より三河で仕えていた武士で、槍の使い手でもありました。
 この頃の畿内伊賀・甲賀では、伊賀衆と甲賀衆は、群れは違いますが敵対関係はなく、共同体として協力し合う存在でした。
 天正7(1579)年9月に織田信雄(北畠氏へ養子:織田信長次男)は、8000の兵を率いて伊賀に攻め込んでいますが、若気の至りで織田信長の許可も得ずにおこなったので、伊賀軍1000に惨敗、織田信長が激怒して叱責されます(滝川益一等の武将は甲賀で修行してから織田家臣になっており、甲賀とは親和性が高く、攻撃は閉鎖的な伊賀に対してのみおこなわれました)。
 織田信長も歯向かわれ、子供が負けたので復讐に燃えます。その後も織田信雄との小競り合いが続き、天正9年9月に、今度は織田信長の命令で織田信雄4万6000の兵力で伊賀に総攻撃を掛けます。伊賀の里を守っていた棟梁藤林長門、百地丹波は必死に戦いますが、大砲まで装備した多勢の織田信長軍に百地一族の柏原城に追い詰められます。
 織田信長は、城を明け渡して降伏すれば助命すると伝えますが、これまでそうやって皆殺しにしてきた経緯を伊賀衆は知っていたため、夜陰に紛れて全員姿を消してしまったのです。その後、彼等は徳川家康の庇護の元に入り畿内各地に分散して隠密活動をするのです。
 茶屋四郎次郎清延の手引きにより、服部半蔵が甲賀の多羅尾四郎兵衛光弘に伊賀国への道案内を頼み、甲賀衆約300人の護衛と手練れの徳川家重臣達と共同で徳川家康を守りながら、多羅尾峠の秘密の通路を通って、護衛の伊賀衆約200人が待ち受ける伊賀国へ入り、険しい山道を通りぬけ、伊勢の白子(近鉄線で白子駅を通った時に、「しらこ」でなく、「しろこ」と呼称することがわかり勉強になりました)から海路三河の大浜へと逃げたのです。
 この伊賀越えの開始にあたり、一般的にいわれているのは、徳川家康と共に武田家を裏切り、手引きをした武田家の元重臣穴山梅雪は徳川家康と別行動をとり、脱出を図りますが、途中、落ち武者狩りにあい、落命したとされています。しかし、ただでさえ護衛が少なく安全に脱出できるかどうか不安な状況下で、より少なくなる人数で道もよくわからないのに別行動はとれないと思いますので、私なりの解釈を述べてみます。
 織田信長から甲州征伐での褒美として、武田の領地であった甲斐国は、織田信長の重臣河尻秀隆が拝領しますが、その領地内にある穴山梅雪の領地は穴山梅雪に安堵されていました。そのお礼を言いに徳川家康と共に安土城へ来ていたのです。徳川家康は甲州征伐時に穴山梅雪に寝返り交渉をおこなっており、状況が変われば容易に主人を変える者との認識があったはずです。
 徳川家康は6月4日には三河に戻り、翌6月5日に旧武田家臣で徳川家康の家臣となっていた岡田正綱に、織田家臣の領地となった旧武田領地の甲斐侵攻を命じます。織田信長より甲斐を拝領していた河尻秀隆も逃げる途中、徳川家康が匿っていた旧武田家の武将達に殺害されます。
 同じく甲斐に領地のある穴山梅雪はこれと同じ理由も重なり、徳川家康に殺害されたと観る方がすっきりとします。西方への進軍の前に背後からの脅威を排除するのは兵法の初歩ですが、織田信長の重臣達がその対象であるのはおかしいですね。
 この時点では徳川家康は、羽柴秀吉の迅速な中国大返しを知らず、明智光秀が畿内を統制すると思っており、明智光秀との未来を描くために、旧織田家の排除を進めたのではないかと思います。
 6月15日頃(6月14日という記録もあります)にようやく徳川家康は明智光秀討伐という名目で西方への出陣をしますが、徳川家康は6月14日には明智光秀が山崎の合戦で敗北し、その後落命したことを知っていたはずなので、慌てて西方への進軍をし、明智光秀が本当に落命したかどうかを確かめることと、敗北した明智光秀の家臣達を配下に組み入れ、描いた未来の実現ができるかどうかをすぐに実行できる準備を持って判断したかったのだと感じます。
 6月19日には、徳川家康は尾張の西端にある津嶋に到達しますが、羽柴秀吉からの引上げ勧告がある6月21日まで、未練たらしく布陣を続けます。
 徳川家康は伊賀越えの間中、情勢を分析しつつ天下取りの方法を考えていたのです。
 駿河の抑えの甲州にいる織田家臣を殺めた上で、明智光秀と共同歩調を取り、羽柴秀吉、柴田勝家と対抗しようと図ったものと感じます。
 しかし、羽柴秀吉の中国大返しにより目論みが外れ、静観せざるを得なかったのだと思います。
 ちなみに6月15日に安土城が炎上し、誰が放火したかについてさまざまな説がありますが、まちがいなく徳川家康が伊賀衆に命じて放火させたのだと思います。
 安土城を守っていた明智秀満は6月14日、明智光秀が落ち武者狩りで落命したことを知り、坂本城へ引き上げ、安土城は空き家となりますが、未来を描けるかもしれない明智の軍がいなくなり、織田勢が再び入り込む前に、その隙に乗じて侵入し放火したのでしょう。発掘調査ではお城だけが燃え、城下町には火災の跡が見られないことからも象徴たる城そのものがターゲットだったことが伺えます。
 徳川家康は後に豊臣秀吉の大坂城を徹底的に破壊しその上に城を建築する等の感覚の持ち主です。また、旧織田家の家臣を抹殺し始めていることから、織田家の天下取りの象徴である安土城をそのまま残しておくはずがないのです。
 こうして、徳川家康の最大のピンチであった伊賀越えは、最大のチャンスでもあったのですが、羽柴秀吉の方が運と共に1枚上手であったことがその後の清洲会議でも証明されます。
 今回は大きなテーマをとり上げたため、バックヤードの説明に長々と紙面を要しました。
 私の独善と偏見がかなりの部分に入っている妄想ではありますが、違う捉え方も当然多くあると思います。読者がさまざまな資料から自分なりの歴史大河ドラマをさまざまな時代において、思い浮かべる楽しみを知って頂ければ、ちょっとした旅先の地でも見方や感じ方が違ってくると信じています。
(日本海計測特機(株)代表取締役)


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